暦 ―こよみ―
睦月(三)ネックレス
「すっかり世話になったなあ、保子さん」
「本当に、厄介かけたわね」
来た時の装いでカバンを下げ、玄関先に立った栄吉と文江が滞在の礼を言った。
「とんでもありません、何にもおかまいできなくて。ぜひ、またいらしてくださいね」
「そうだよ、北陸新幹線に乗ればすぐだし、また来てくださいよ」
「おじいちゃん、おばあちゃん、試験が終わったら遊びに行くね」
保子、和孝、早紀子がそれぞれ、別れの挨拶をした。
「ああ、おいで、待っているよ。早紀子、試験がんばってな」
「早紀子ちゃん、風邪ひかないように気をつけてね」
和孝家で一週間ほど過ごした栄吉と文江を、由紀子が横浜の節子の家まで送っていくことになり、その朝、みんなに見送られて老夫婦は和孝家を後にした。そのためこの日、由紀子は午後から出社することにしていた。
駅までの道を祖父母と肩を並べてのんびり歩きながら由紀子が尋ねた。
「おばあちゃん、東京は楽しめた?」
「ええ、楽しかったわ。昨日は晴れ着姿の娘さんをたくさん見られたし」
「ああ、昨日はちょうど成人式だったわね」
「あれだけそろうと見事だな、でも由紀子の方がきれいだったな、ばあさん」
「そうですねお父さん、由紀ちゃんの時を思い出しますねえ。送ってくれた写真、本当にきれいで」
「ありがとう、おじいちゃんおばあちゃん、もうだいぶ前のことだし、なんだか恥ずかしいわ。ところで何が一番良かった?」
「そうね……テレビで見ていたスカイツリーを見られたことかしらね。生きているうちに見られるとは思っていなかったからね」
「私は二度目だったけど、初めての時は天気が悪くて見晴らしがよくなかったから、おばあちゃんたちと行った時が本当にスカイツリーに上った感じがしたわ。青空の先、遠くまで見渡せたんですもの」
「景色も素晴らしかったけど、私は真下からスカイツリーを見上げた時の高さには驚いたわ、ねえ、お父さん」
「そうだな、わしも首が痛くなるほど見惚れてしまったよ」
「やだ、景色のよさに感動するところなのに、ふたりとも変なの」
由紀子は祖父母を微笑ましく思った。
「由紀子、ありがとうよ。あちこち連れて行ってくれて、本当に楽しかったよ」
「そうね、でも、お仕事休ませてしまったわね」
「私もとても楽しかったわ、おじいちゃんとおばあちゃんのおかげよ。会社の方は大丈夫、有休が溜まっていたし、この時期は忙しくないから」
「それなら、ちょっと頼みがあるんじゃが……」
「なあに、おじいちゃん、何でも言ってちょうだい」
「いやな、ばあさんに買ってやりたいものがあるんでデパートに寄りたいんだが」
「わー、おばあちゃん、よかったわね。まだ時間はあるし、ちょっと寄り道しちゃいましょうね」
平日の朝は通勤客で電車は混んでいた。三人は満員電車をやり過ごし、比較的空いた電車を選んで新宿までやってきた。そして三人は駅前のデパートに入った。
「東京のデパートは大きいなあ」
「ホント、きれいですねえ」
「あんまりきょろきょろするなよ、田舎者が丸出しになるから」
「やだ、おじいちゃん、いろいろ見て回るためにみんな来るのよ。ところでどの売り場へ行く?」
「宝石売り場はどこかな?」
「えっ?」
祖父の口から意外な言葉が出て、由紀子は一瞬聞き違いかと思った。
「いやなに、ばあさんにネックレスというものを買ってやろうかと思ってな。冥途の土産さ」
栄吉はそう言って笑った。
宝石売り場は平日の午前中とあってか、客はほとんどいなかった。店員が待ち構えているような空気が漂う宝石売り場がもともと苦手な由紀子にとって、この状況は最悪だった。
さっそく、キリッとしたメガネ姿の女性店員に声をかけられた。
「お客様、何をお探しですか? お嬢さまには真珠などお似合いかと思いますが」
「いいえ私ではなく……」
栄吉が由紀子を遮って言った。
「ネックレスを見たいんだが」
「ネックレスといってもいろいろございますが、真珠の他には十八金のものですとか、石がついているものですとか」
「石とは?」
「たとえば誕生石などいかがですか?」
「そうだな、それを見せてもらおうか」
「お嬢さまは何月生まれですか?」
すかさず文江が答えた。
「たしか、私と同じ九月だったわよね」
「それでは売り場にご案内します、こちらへどうぞ」
案内されたサファイアのネックレスが並んだショーケースの前には、男性店員が立っていた。祖父母とともに現れた娘に、温かいまなざしを向けて応対した。
「いらっしゃいませ。ゆっくりご覧いただいて、お気に召すものがおありでしたら、お出しいたしますのでお申し付けください」
「ばあさん、どれがいいかな?」
「そうね、これなんかどうかしら、ねえ、由紀子ちゃん」
「う〜ん、それもいいけどこっちもどう?」
三人はしばらく楽しそうにショーケースの中を品定めしていた。その様子を男性店員は笑顔を浮かべて眺めている。
「これ、見せていただけます?」
由紀子の申し出に店員はネックレスをひとつ取出し、文江に向かって、
「後ろを向いていただけますか?」
と言った。文江が後ろを向くと、
「失礼します」
そう言って、文江の首にネックレスをつけた。そして、鏡を文江の正面に向けて、やさしくほほ笑んだ。
「いかがですか? よくお似合いですよ」
由紀子は驚いてその男性店員を見つめた。最初のメガネの女性店員は、ネックレスの主は由紀子だと決めてかかっていた。ふつうはそう思われて当然だろうが、由紀子は祖母にとても申し訳ないような気がした。でも、この男性店員は、三人の会話から文江を客として自然な対応をしてくれた。気持ちが軽くなったと由紀子が感じたその時だった。
「同じ物をもう一つ欲しいんだが」
栄吉の言葉に唖然としたのは由紀子だけだった。文江も、そして店員までもが、まるで当然の流れのように受け止めているようだった。
由紀子はその時初めて気がついた。祖父母は最初から私にプレゼントをしてくれるつもりだったこと、そのため私が受け取りやすいように文江にも買ったのだと。驚くことには、あの店員までもそれに気づいていたことだった。なんと心の細やかな人だろう。
きれいに包装された包みの入った二つの小さな紙袋を、文江と由紀子にそれぞれ渡すと、
「ありがとうございました」
そう言って、店員は深々と頭を下げた。その時由紀子の目には店員の胸のネームプレート『水沢』が映り、なぜか心に焼きついた。