暦 ―こよみ―
睦月(二)祖父母の上京
その日は冬晴れだった。
真中由紀子の職場は、JRの駅からほど近いオフィスビルが建ち並ぶ一角にあった。十階建てのビルの五階フロアーに入っている小さな商社で経理事務の仕事をしている。
正月明けの年始の挨拶が済むと、早くも日常が戻ってきた。時おり間の抜けたように、ポツリポツリと年賀状が届くのが正月の名残りを感じさせる。
昼休み、真冬であっても風もなく陽射しの暖かさを感じる日の屋上は日光浴を楽しむことができる。由紀子はここから見る景色をどこか懐かしく感じた。
周りはビルに囲まれていたが、東側の一画だけ視野が開ける。そこには隣接する高校のグラウンドがあった。その校庭の向こう側に校舎が建っている。そして、夕方になると風に乗って吹奏楽の音色が流れてくることがあった。
こうしてその校舎を眺めていると、高校時代が思い出されてくる。やはり、このように昼休みに屋上に上っては街を眺めていた。そしてこの空の下のどこかに、将来を共にする人がいるのだろうか? そう本気で考えたりした。
あれから十年、自分はいまだどこかにいるであろうその人を、こうして探し続けているのだろうか……そんな感慨にふけっていると、メールの着信音が鳴った。
『電話ちょうだい』
母からのメールを見て、由紀子はその場で家に電話を入れた。
「ああ由紀子、お昼休みだと思ったけれど、もしも仕事中だったらいけないと思ってメールにしたの」
「なに?」
「今日、仕事が終わったら何か用ある?」
「特にないけど」
「じゃあ悪いけど、世田谷へおじいちゃんたちを迎えに行ってくれないかしら」
「え? おじいちゃんたち、昨日こっちに来たばかりよね?」
「ええ、しばらく世田谷にいるということだったんだけど、さっき世田谷の香津子さんから電話があって、おじいちゃんたちが早く私たちに会いたいって言っているらしいの」
「そうなの……わかった、今日帰りに寄ってみるわ」
「そう、助かるわ」
「お母さんも大変ね、予定が狂っちゃって」
「ええ、まあね。これから夕食の買い出しに行くところよ」
「今夜はいいわよ、帰りにいっしょに何か食べてくるから」
「そう、でも……」
「明日からは毎晩だから、今日くらいは休んでおいたら?」
「そうね、レパートリーも少ないことだし、そうさせてもらおうかしら」
由紀子は、世田谷の家から体よく祖父たちを押し付けられたのではないかと思った。
世田谷の伯父夫婦は感じが悪いというわけではないが、あまり情というものが感じられない。特に伯母の香津子は、家柄の良さを鼻に掛けているようなところがあった。立派な家を構え、息子二人、由紀子にとっては従兄妹にあたるのだが、それぞれ弁護士と医者の卵らしい。
長男の嫁として、上京してきた夫の両親を東京駅まで迎えに行き、一晩泊めたということで、義務は果たしたということなのだろう。祖父たちも、形だけの歓待に居心地の悪さを感じ、早々に出たくなったのかもしれない。
定時に退社した由紀子は、まっすぐに伯父の家へ向かった。冬の六時はもう真っ暗で、吹く風も冷たい。暖かな陽射しの下で祖父たちと対面できれば心から笑顔になれたのに、と久しぶりの再会が台無しになってしまったようで残念だった。
世田谷の政興宅に着いた由紀子は、立派な門灯の灯る下、インターホンのボタンを押した。すると、由紀子を確認することもなく、さっとドアが開いた。よほど待っていたのだろう。いかにも山の手の奥様といういで立ちで、上品な笑顔をたたえた伯母の香津子が現れ、門を開けて由紀子を招き入れた。
「由紀子ちゃん、お仕事でお疲れのところご苦労さまね。おじいちゃまたち、お待ちかねよ」
香津子の言う通り、開いている玄関からカバンを手にしたコート姿の祖父母が出てきた。
「おじいちゃん、おばあちゃん、お久しぶりです。由紀子です」
「おお、久しぶり、久しぶり。今日は悪かったね」
「まあ、由紀子ちゃん、しばらく見ない間に立派な娘さんになって……」
続いて奥から、伯父の政興が顔を見せた。
「由紀ちゃん、ご苦労さん、お父さんとお母さんによろしく言っておくれ」
「伯父さん、こんばんは。はい、伝えます」
伯父の登場で急かされるように、由紀子は祖父母を連れ伯父宅を後にした。
「おばあちゃん、荷物を持つわ」
「ありがとう、助かるわ」
「おじいちゃん、寒くない?」
「金沢の冬ほどではないが、東京もけっこう寒いもんだなあ」
「お腹すいたでしょう? 温かいラーメンでも食べて帰りましょう」
「そりゃあ、ありがたい」
「おいしいラーメン屋さん知っているからまかせてね」
「ありがとう、由紀子ちゃん」
三人は、寄り添うように冬の夜道を歩いた。
やがて、目当ての店に着き、中に入るとそこは別世界のように暖かかった。奥のテーブルに三人で座り、由紀子は祖父母のコートを受け取り、自分のと一緒に隣に置いた。店員から渡されたメニューの中身をやさしく説明したり、丼が届くと箸を渡したりと、細々とふたりの世話を焼いた。
湯気の向こうで、美味しそうにラーメンを啜るふたりを見て、由紀子はうれしかった。祖父母孝行がこんなに心を温めてくれるものだとは知らなかった。
店まで来る間、何を言っても何をしても、ふたりは笑顔で感謝してくれた。おじいちゃん、おばあちゃん、と呼ぶのも子どもの頃を思い出すようで懐かしい。
食べ終わっても、美味しかった、の連発が由紀子を喜ばせた。
「ねえ、おじいちゃん、東京に来るのは急に思い立ったの?」
「そうだな、自分たちで動けるうちに、みんなの暮らしを見ておくのも悪くないと思ってな」
「テレビでね、今度新幹線が通って、東京まで三時間で行けるって聞いたもんでね」
続けて文江も答えた。
「そう、乗り心地はどうだった?」
「いやあ、きれいでなあ、飛行機にでも乗っているようだったよ」
「やだ、お父さんたら、飛行機なんて乗ったことないじゃないですか」
「そうじゃったな」
三人は声を立てて笑ったが、なぜか、由紀子は心の底に切なさが広がった。
子どもの頃、遊び行った時の祖父母は、もっと若くてはつらつとしていた。当然のことだが、ふたりとも歳をとってしまった。それが何とも言えぬ哀しさとなって、由紀子の胸を締め付けるのだった。