暦 ―こよみ―
葉月(四)横浜の家
「お母さん、今日だったわよね、お姉さんたちが帰って来るのは」
「そうね、おじいちゃんたち喜んだでしょうね」
「もちろんよ、だってお姉さんはおじいちゃんたちのお気に入りですもの」
「あら、早紀子だって、横浜のお義姉さんたちのお気に入りじゃない?」
「そうかも、ということで、その横浜へ行って来るわ」
「毎日、ご苦労さまね」
横浜の節子宅の離れに、先週、介護士講習会で知り合った小高渉が越して来た。
早紀子の紹介ということで、伯母の節子は渉を歓迎した。見るからに健康的な若者で、屈託のないところが早紀子の彼らしいと思った。そしてまた、介護士を目指すというだけあって、人当たりのいいやさしい人柄に、夫の重雄もすっかり渉を気に入った。そして、二十歳になったら酒を酌み交わそうと密かに楽しみにするようになっていた。
渉は、早くに父を病気で亡くし、母子家庭で育った。女手ひとつで子どもを育てる厳しい環境の中、一時母は体をこわしたが、回復した今では、地域の人に支えられながらなんとか暮らしている。そんな母親の世話をしてきたことがきっかけで、渉はいつしか介護士を目指すようになった。
渉の住んでいるところは町からかなり離れていた。そのためどうせ町に出るのなら、思い切って東京で経験を積もうと考えた。将来、母の生まれ育った東京で一緒に暮らそうという夢もあったからだ。
しかし、講習を受けながらのバイト生活は、予想以上に厳しいものだった。こんな生活をいつまで続けられるだろうかと不安を感じ始めた時に、早紀子に出会った。
渉の現状を見かねた早紀子は、せめて家賃の軽減になればと、伯母の節子に泣きついた。事情を聞いた節子は、講習の間は家賃を免除する代わりに、母屋の方の手伝いを頼みたいと提案してきた。早紀子には、それが口実であることはすぐにわかった。ただで借りるというのでは、渉の肩身が狭いだろうという配慮に違いない。
それに気づいた早紀子は、ヘルパーの実践に役立つからと、講習の合い間を縫っては横浜に通い、節子の家事を手伝っている。もちろん、渉に会うという目的もあったのだが。
こうして、節子夫婦は若い二人から活力をもらい、思いもかけず、子どものいない寂しさを埋めてもらう日々を送ることになった。
節子は思った。これまで、子どもを育てている友人たちを羨ましく眺めていたが、その友人たちも今では、子どもたちが自立してしまい夫婦ふたりだけで暮らしている人が多い。家に寄りつかない子どもたちの愚痴を言い、寂しそうだ。それがどうだろう、今の自分たちは、こうして、若い人とともに暮らしている。人生なんてわからないものだ。
「こんにちは〜」
今日も早紀子がやって来た。そして、いきなりこう切り出した。
「伯母さん、ちょっと話聞いてもらえる?」
ふたりの若者を前に節子が聞き返した。
「なあに? 早紀ちゃん、渉くん」
「私たち、ようやく就職先が決まったの。横浜の老人介護施設、来月からなんだけど」
「あら、それはおめでとう。でも、渉くんは長野でお母さんが待っているんじゃないの?」
「はい、でも長野に戻っても家から通える施設はないし、早紀と相談したんですけど、がんばって介護福祉士の資格をとろうかと」
「介護福祉士?」
「そうなの、伯母さん。それなら国家資格だし、ふたりとも一生の仕事としてやりがいもあると思って」
「ただ、それには三年の実務経験が必要なんです。それで……」
「今度は介護士をやりながら勉強をしなくちゃならないの」
早紀子の言いたいことはわかったとばかりに、節子は微笑んだ。
「それは忙しくなるわね。母家の方の手伝いはもういいわよ」
「すみません、その代わり、当然ですが家賃を入れさせてもらいます」
「あら、いいわよ、その介護福祉士というものになるまでは」
「そうはいかないわよね、渉。もう来月からは私たち、社会人ですもの。ただ、うんと安くしてね」
「じゃ、伯母さん、また明日!」
夕食の片づけを終え、四人でしばらくテレビを見ながらくつろいだ後、節子夫婦は二階の寝室へ、渉は離れの自室へ、そして、早紀子は自宅へと帰る時間がやって来た。
渉と母屋を出た早紀子は、
「ちょっと寄っていこうかな……」
そう言ったが、渉は応じなかった。
「夜はダメだよ。おばさんたちの手前、誤解を招く行動は慎まなくちゃ」
「へえ、意外ときちんとしているんだ」
「ここを追い出されたら大変だからね。こんな居心地のいい借家はどこにもないさ」
「いい青年でいるためには、私とはクリーンでいなくちゃってこと?」
「そういうことになるかな」
「何それ、女としての私の魅力より、自分の環境を優先するというわけ!」
「俺たちはまだ若いんだから、今のままでいいじゃないか」
「若いってそういうもんじゃないと思うけど!」
「やけに今夜は突っかかるんだな」
「今日、お姉さんたちが帰ってくるの。二泊三日の旅行なんていいなあと思って」
「旅行といっても、行き先はお父さんの実家だろ? それも結婚の報告に。いろいろと大変だと思うよ」
「昼間は大変でも夜は……」
「おまえ、ばかか。お姉さんたち、実家に泊まるんだろ? ふたりで過ごすなんてことあり得ないよ」
「そうなんだけど、なんか、妙な感じがするんだよね……」