暦 ―こよみ―
卯月(一)家庭とは
「行って来ま〜す」
四月に入り、新しい元号が発表され、まだ世間が湧きたっているこの日、早紀子は足取りも軽く家を後にした。横浜の節子宅での、早紀子の家事手伝いが無事に終わり、今日は節子の夫、重雄の定年退職祝と早紀子のご苦労さん会を兼ねた食事会に招かれたのだ。
節子夫婦は和孝家全員を招待したかったのだが、そうすると世田谷の兄にも声をかけることになる。兄はともかくあの香津子のことだから、何か理由をつけて断ってくるのはわかっていた。こちらの身内の集まり、それも場所が中華街とあっては鼻にも掛けないだろう。そんな形だけのやり取りが面倒で、今回は早紀子だけということにした。
兄の政興一家は、住まいとする世田谷の高級住宅街が建ち並ぶ土地柄か、気位が高く、いつしか付き合いづらいという印象を兄弟たちに与えていた。上京した親でさえ、一泊で退散したくらいである。
「早紀ちゃん、思いのほか役に立ったみたいね」
母と昼食のインスタントラーメンを啜りながら由紀子が言った。
「なんだかお義姉さんにずいぶんと気に入られたみたいよ。これからも時々寄ってほしいわ、ですって」
「でも、早紀ちゃんはこれから介護士を目指す準備をしなくちゃね」
「そうね、お義姉さんのところに通ってきたヘルパーさんに仕事の内容を聞いたり、お姑さんの入院先の看護師さんには介護福祉士についていろいろと教えてもらったみたいよ」
「それが早紀ちゃんのいいところね。誰とでも仲良くなるし、行動力もあって」
保子がお茶を入れに立ち上がった。
「ところで横浜のお義兄さんだけどね、三年後の定年を早めて今回退職したのは、お母さんの介護のためだったらしいのよ。偉いわね」
「だって、自分のお母さんのためでしょう?」
「そうだけど、普通は嫁であるお義姉さんがするものだと思うのよ。少なくとも私たち世代の感覚ではね。それを、ふたりで看ていこうということらしいの。お義姉さんは幸せ者ね」
「たしかにそう言われればそうかもね。伯父さん、見るからにいい人そうですもの」
暑いお茶をふたつ、テーブルに置きながら保子は続けた。
「そういえば、世田谷のお義兄さんのところの久興ちゃんが今月から事務所に入ったそうよ」
「いよいよ弁護士デビューね。政興伯父さんも、我が子だから育てがいがあるでしょうね」
「それがそうはいかないみたいなのよ。あの事務所には、香津子さんの弟の正志さんがいるんですもの。お義兄さんもやりづらいと思うわ」
「あら、今までだってずっと一緒にやって来たわけでしょう? それに後を継ぐのは、所長の息子の正志さんに決まっているでしょうから、久ちゃんが入っても関係ないんじゃない?」
「ところがそうでもないらしいのよ。正志さんよりお義兄さんの方が人望があって弁護士としても優秀みたいなのよ。なんでも、次の所長はお義兄さんになんて話も事務所内では囁かれているらしいわ。
そんな話、あの香津子さんの耳に入らないわけないじゃない? 今の所長さんはかなりの高齢だから、水面下ではいろいろ動きがあるんじゃないかしらね。そんな状況ですもの、香津子さんなら久興ちゃんはもちろん、お義兄さんのお尻まで叩きそうだわ。お義兄さんは温和な人だけど、香津子さんはね……
同じ身内と言っても、やっぱり一番は自分の家庭ですもの。大人になった弟より、自分の息子や夫、という香津子さんの気持ちもわからないでもないけどね。なんにしても、お義兄さん、厄介な立場に立たされたもんだわ」
由紀子は正月に祖父母を迎えに行った時、玄関先に出てきた香津子を思い出した。指に大きな指輪を光らせ、言葉巧みに祖父母を送り出す香津子。その様子を後ろから黙ってながめていた政興の姿が、今思うと哀れに感じられた。
由紀子は自分の部屋で洗濯物を畳みながら考えた。
結婚というのは、ある程度バランスが大切なのではないだろうか。母の言う通り、世田谷の伯父夫婦は、香津子の存在が際立ちすぎているように見える。妻の尻に敷かれるのは家庭円満の秘訣などと言われるが、それも程度問題だろう。
政興と香津子――育った環境、その性格、それらはまるで水と油だ。それでも、ちゃんと家庭を営み、息子二人もひとり立ちさせているのが不思議にさえ思える。二人はどうして結婚したのだろう? 幸せな結婚生活を送れたのだろうか? 男と女というものには、他人にはわからない何かがあるのだろう。
では、私たちはどうだろう? 直樹と自分の場合、育った環境のバランスは伯父たちのようには悪くはない。でも、だからと言って家庭を築き、子どもをもうけるなんて、今の時点ではとても考えられない。あのお母さんが気になるだけではない。むしろ、私の直樹への想いが問題だろう。いくらいきなりとはいえ、本当に好きな人からキスをされて考え込むなんてあり得ない気がする。
早紀子の言う通り、気になったことは何でも話した方がいいのだろうか? 放っておくと、心にできた小さなシミは広がっていくかもしれない。今度会った時に解決しなければ。
夕方になり、突然、兄の浩一がやってきた。浩一の娘、のどかの入園祝をすっぽかして以来だから、ひと月近くたつだろうか。
「あら、お兄さんどうしたの?」
「たまには、母さんの手料理でも食べようかと思ってね」
「ずいぶんと勝手ね。この前は腕によりをかけたお母さんの料理に手も付けず帰ったくせに」
「だから今日はそのお詫びに――はい、これ」
洋菓子店の袋を差し出した。
「なるほど、お母さんの好物持参というわけね」
ちょうどそこへ保子が部屋に入ってきた。
「あら、浩ちゃんどうしたの?」
「親子だね、同じセリフとは」
「何言ってんの、あんただって親子でしょ」
久しぶりに浩一を交えた夕食だった。
「早紀子がいないのは残念だけど、今頃、中華街でいっぱいごちそうになっているんだろうな」
「そうね、でもあの子、本当によくがんばったわ」
「たしかに、意外なほどよくやったな。人には取り柄というものがあるものだ」
「お父さんたらひどいわ。早紀子が聞いたら大憤慨よ」
「そうか? 褒めたつもりだったんだが、また失言だったかな」
「ところでお兄さん、のどかちゃんの幼稚園の入園式、そろそろでしょ? お祝いやり直さなきゃね」
「うん、それが……」
「のどかちゃん、どうかしたの?」
保子が箸をおいて、浩一の言葉を待った。
「多恵、つわりがひどいみたいで、あのまま実家にいるんだ。当分は幼稚園どころではないから、秋あたりから通わせようと思って。まだ年少組だし、どうってことないさ」
「そんな――入園式にも出席させないなんて。あんたが出ればいいじゃない。それに秋までなんて言ってないで、落ち着いたら通わせられるでしょう?」
「でも、多恵、今はしんどそうで準備とかもできそうにないから……」
「それはそうかもしれないけど支度くらい母さんが手伝うわよ。なんならしばらくはこちらから通わせてもいいのよ」
「いいよ、それじゃ多恵も気を使うだろうから。とにかく今は大事な時だからって向こうのお義母さんにも言われているし、多恵の思うようにさせてやりたいんだ」
「浩一、お前、多恵さんのところへは行っているのか?」
和孝が聞いた。