暦 ―こよみ―
弥生(四)お花見
桜の開花宣言後初の週末、由紀子は同僚の前坂奈津子と隅田川沿いを歩いていた。
まだ満開には程遠い上、とりわけこの日は川面を吹き抜ける風が冷たかった。どんよりとした曇り空も春というよりまだ冬のようで、しっかりとしたコート姿の人が行き交っている。そして、見上げる枝の先には蕾が目立ち、花見には早すぎるというのは明らかだった。
それでもかなりの人出で、二人もせっかく来たのだから少しでも花見の気分を味わおうと、桜の木の下をしばらく歩いた。
それなりにお花見を果たした二人は川伝いを離れ、街中のレストランでランチを取ることにした。昼にはまだ少し早いが、この人出では昼時になったら混んでしまうだろう。
そして、店に入った二人はパスタを食べながら、会社のことや最近公開された映画の話などで盛り上がった。お花見としては残念な日だったが、花より団子、ならぬ、花よりおしゃべり。女にとっておしゃべりは気持ちを弾ませ、話題が尽きることはない。
食後のデザートを食べながら、奈津子が言った。
「由紀ちゃん、私ね、会社、辞めるかもしれない」
「え!」
「両親が帰って来いって言ってるの。前から言われていたんだけど、最近、父の具合が良くないみたいで、これ以上引き延ばすわけにもいかないかなって……」
「奈っちゃん、実家は北海道だったわね」
「ええ、大学から東京に出してもらって、ずっと好きにさせてもらってきたの。だから、そろそろ親孝行する時が来たのかもしれないわ」
「そうね、一人娘なのにここまで自由にさせてもらったんですものね」
「ホント、兄弟でもいたらちょっとは違ったかもしれないと思うのよね。だから由紀ちゃんのところが羨ましいわ」
「まあ、たしかに兄弟がいるというのは心強いけど、兄は家庭を持ってお嫁さん寄りだし、妹と私だって先々どうなるかわからないわ。ただ、誰かは近くにいるようにしようと思うでしょうね、たぶん」
「そっか、北海道というのが遠すぎるということか」
「いつ頃、帰るつもり?」
「今のところは、今年いっぱいって考えているわ。実はね、五月の連休に一度帰る予定なんだけど、その時にお見合いをすることになっているの」
「え! お見合い?」
「そうなの、地元の役場に勤めている人らしいんだけど、両親が気に入っててね、いい人だからぜひ会ってごらん、て」
「じゃ、奈っちゃんは北海道へ帰って結婚するんだ」
「やだ、まだ会ったこともないからわからないわよ。顔も見たこともない人よ、いくら親が勧めるからって結婚するとは限らないわ」
「それはそうね」
「まだ何も決まっていないから、誰にも内緒よ」
「ええ、わかったわ。でも入社した時からの同期がこれでみんないなくなってしまうというわけね……なんだか寂しいわ」
「由紀ちゃんはいい人いないの?」
そう聞かれて、由紀子は即答できなかった。直樹のことが話せない自分が自分でもわからない。家に連れてきたので家族は知っている、でも、それ以外の誰にもまだ直樹のことは話していない。なぜだか、恋人とは言えない自分がいた。
直樹の家からの帰り道、突然の路上キス。いつも細やかな気遣いの紳士的な直樹の行動とはとても思えない。お酒が入っていたせいだろうか? それとも、母親に引き合わせた安堵感からだろうか?
でもその直後、直樹はまるで何事もなかったように歩き出し、その後はいつもと変わらぬ直樹がそこにいた。由紀子はまるで狐につままれたようだった。
それにしても、二十八にもなって男に唇を奪われたと騒ぎ立てるわけにもいかない。その上、相手は親公認で付き合っている人だ。何も不自然なところはない、いや、むしろ甘い感覚に包まれてもおかしくないはずなのに、由紀子の気持ちはどこかブルーだった。
母ひとり子ひとりの生活を目の当たりにした直後だったからだろうか? それとも、こちらが引け目を感じてしまうほどの若く美しい女性が姑として現れたことだろうか? あるいは、今後、またあの時のように、直樹が豹変するのではないかという不安がつきまとうからか……
マリッジブルー以前のラヴァーブルーとでもいうものだろうか? 妹の早紀子に相談したかったが、さすがにキスのことは言えない。
「どうしたの? 由紀ちゃん、急に黙り込んじゃって」
「ああ、ごめん。ちょっと考えごとをしちゃって。本当にごめんなさい」
「ううん。私の方こそ、彼はいないのか、なんてデリカシーのないことを聞いちゃってごめんなさいね」
「そんなことないわよ、彼ができたら奈っちゃんに報告するわね」
その夜、いつものようにメールの定期便が届いたが、由紀子はなんだか返信する気になれなかった。スマホを見つめ、ため息をついているところへ、早紀子がやって来た。
「お姉さん、今日のお花見まだ早かったんじゃない?」
「そうなの、来週がよかったわね」
「週中に直樹さんと見に行けばいいじゃない。きっとちょうど満開で見頃になるわよ」
「そうね、でも今日見たからもういいわ」
「お姉さん、どうかした?」
早紀子は姉の顔を覗き込んだ。
「どうして?」
「なんか元気ないみたいだから」
「ああ、今日いっしょにお花見をした同僚の奈っちゃんが、もしかしたら年内で会社を辞めるかもしれないの。寂しくなるわ」
「ふ〜ん。私には違うことで落ち込んでいるように見えるけどな。だって、直樹さんの家に行ってからお姉さん、ずっと冴えない感じだもの」
この子はなんて鋭いのだろう、と由紀子は思った。そして、美沙子のことを打ち明けた。
「直樹さんのお母さん、若くてとてもきれいだったの」
「その上、ふたりの仲はとてもいい、というわけね。だからお姉さんの入り込む余地はないのではないかと。そういうことなんだ」
「それに……」
「それに?」
「ううん、なんでもない」
「やだ、言いかけておいて、キスでもされた?」
由紀子は目を丸くして驚いた。
「そ、そんなわけないでしょ!」
「お姉さんてわかりやすいなあ。図星なのね。それも、お姉さんの意に沿わないシチュエーションだったってわけだ」
(この子にはかなわない……)
「焦ることないわよ、全くの他人が付き合っていくんですもの。わからないことだらけで当り前よ。少しずつ理解し合えればいいんじゃない? でも、思ったことは溜め込まない方がいいよ。何でも話せるということが一番大切だと思うわ」
(もう、脱帽だ)
由紀子は心の中で苦笑した。