暦 ―こよみ―
弥生(一)進路
春の兆しを感じさせるうららかな日曜日、リビングのソファーで疲れ切った様子の早紀子が寝転んでいた。部屋に入り、それに気づいた由紀子が言った。
「あら、早紀ちゃん、いつの間に帰っていたの? 気づかなかったわ」
「ちょっと前に戻ったの、お母さんが交代で来てくれたから」
「そう、ご苦労さま、日曜はお休みだったわね」
「ああ、もう、動けないよー」
「うちに帰った途端これですものねえ。あちらで役に立っているのかしら?」
「ちゃんとやってます! お味噌汁だって上手に作れるようになったんだから」
「そう、じゃ早速、その腕前を拝見させてもらおうかしら」
「ええ!」
「冗談よ、今日はゆっくりなさい。何か食べる? スパゲティでも作ろうか?」
「うん、お腹すいたー」
大ぶりの鍋でスパゲティを茹で、冷蔵庫から出した野菜を刻んでいる姉の後姿を見ながら、早紀子が言った。
「お姉さんのスパゲティは天下一品よね。直樹さんにも作ってあげるといいよ、私の一押しだから」
「それはどうも」
やがて、湯気の上がるできたての皿が目の前に置かれると、待ちかねた早紀子は、その姉お手製のスパゲティを美味しそうにほおばった。
「ところで、伯母さんの具合はどう? 病院のお姑さんは?」
「伯母さんは元気よ。杖をつけば家の中は何とか歩けるの。トイレへ行くくらいだけどね。ヘルパーさんが来る日に入浴とかはやってもらえるから、私は食事の支度と掃除、洗濯をしているの。あと、病院へも一日おきに行って洗濯物を運んでいるわ」
「それは大変ね。お姑さんはどんな様子?」
「う〜ん、私が行く時はたいてい眠っているわね。看護士さんの話ではあまりよくないみたい。もう九十近いそうだから、体力もないみたいで」
「そうなんだ……」
由紀子は食べ終えた食器と交換に、コーヒーを入れて早紀子の前に置いた。
「お姉さんたちはどう? 直樹さんの仕事も罪よね、日曜は休めないんだから。休みが合わなくてはデートもできないわよね。平日の夜に食事でもしているの?」
「ええ、週に一、二度かな。仕事の後だとあまり時間もないし、翌日仕事だと思うと気持ち的にもゆっくりできないのよね」
「そうよね、同じ職種だとよかったのにね」
「でも、メールはよくするようになったわ。だから、会わなくてもそんなに気にならないの」
「だめよ、メル友になんかなっちゃ! ちゃんと顔を合わせて話さなくちゃね。会うことを面倒なんて思うようなったらお終いよ」
そんなことを言う早紀子をまじまじと見つめ、由紀子が言った。
「早紀ちゃんて、本当にそういうことだけは大人のようなことを言うのね。感心するわ」
「だから、経験豊富だって言ったでしょ」
夜になって、保子が帰ってきた。そして、久しぶりに両親と娘二人がそろって食卓についた。
「早紀子、よくやっているみたいね、お義姉さんが褒めてたわよ」
保子の言葉に、和孝が大げさに驚くように言った。
「へえ、こいつが役に立つとはな〜」
「あら、そんなこと言うんだったら、将来、お父さんの面倒見てあげないわよ」
「そりゃ、大変だ。失言を取り消さなきゃ」
「お父さん、バカにしてるでしょ! 私、ヘルパーさんの仕事を間近に見ていてすごいなあと思ったのよ。大変だけど、とても大切な仕事だし、誰かがやらなければならないでしょ?」
早紀子の意外な言葉に、和孝は今度は感慨深げに言った。
「おまえが一週間でそんなことを言うようになるとはな。やっぱり、他人の家の飯は食うもんだな」
「何それ?」
「親元を離れて世間のことを知る、ということよ」
みんなに食後のお茶を入れながら、保子が言った。
「そうそう、来週の日曜なんだけど、ちょっとしたお食事会でもしようかと思って。浩一のところののどかの幼稚園入園と、早紀子の卒業祝を兼ねて。前の日の土曜はちょうど卒業式だし」
「そうだな、浩一たちとは正月に会ったきりだしな」
「どこで?」
「どこかお店でもいいんだけど、子どもたちがまだ小さいから、うちがいいんじゃないかと思って」
「そうね、それでいいんじゃない」
「悪いけど、由紀子手伝ってね。早紀子は主役だし、当日多恵さんは子どもたちにかかりっきりでしょうから」
「ええ、わかったわ」
「お姉さん、どうぞよろしく。でももう少し後だったら、お姉さんの婚約祝も兼ねられたかもしれなかったわね」
「早紀ちゃんたら……」
「たしかにそうね、でも、それはそれでまた集まればいいことだから」
「お母さんまで……先のことなんてまだ何もわからないわ」
「その通り! 大切なことはゆっくりと考えなければな」
「でた! お父さんの舅根性。嫁にやりたくないのが見え見えね」
「おまえはバカか? まだ結婚してないのに舅も何もあるか!」
「まあまあ、いいじゃないですか。おめでたいことでみんなが集まれるのですから。横浜のお義姉さんには不自由をおかけしてしまうけど、一日のことだから許していただきましょう」
夜も更けて、みんなはそれぞれの部屋へ戻った。そして、由紀子が寝ようとしたところへ、早紀子が声をかけてきた。
「お姉さん、寝ちゃった?」
「今、寝るところよ」
「ちょっといい?」
「いいわよ」
また、モコモコのパーカー姿の早紀子が入ってきた。
「お姉さん、考えたんだけど、私、介護士になろうかと思って」
「ええ!」
由紀子は眠かった目が一気に覚めてしまった。
「ダンサーの次は介護士ですって?! 早紀ちゃん、将来のことまじめに考えてる? もうこんな時間に勘弁してちょうだい」
「本当なのよ、お姉さん。相談に乗ってくれる?」
「とりあえず今日は寝ましょう。私は明日からまた仕事だし、あなただって朝から伯母さんのところでしょ?」
「そうね、じゃ、また今度話聞いてね、おやすみなさい」
早紀子が出て行った後、由紀子は目が冴えてしまい、なかなか寝付けなかった。
(あの子が介護士……ひょっとしたら向いているかもしれない、少なくともダンサーよりは)