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暦 ―こよみ―

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弥生(二)祝い事


 三月半ばとはいえ、まだ冷たい風が肌を刺す。そんな中、早紀子の高校の卒業式が無事に執り行われた。
 特に進学校ではなかったが、だいたいの生徒が進学した。とは言っても一流大学に進んだ生徒はごく一部で、多くはあまり耳にしない大学か、専門学校に進む。
 早紀子も受験勉強に追われている頃は、キャンパスライフを楽しむ自分を思い浮かべていた。しかし、実際に試験日が迫ってくると、どんどん自信がなくなっていった。もう年が明ける頃にはほとんど諦めの心境だった。あとは神頼み、そんな正月を迎えた。
 そして、不合格が現実になると、自分は本当に大学に行きたかったのだろうか? という疑問が湧いた。もちろん、受かった友だちは羨ましい。それぞれの進路に胸弾ませている姿が眩しく、距離を置いたりもした。その上、ダンサーなどと突飛押しもないことを言いだして姉を驚かせたこともあった。
 でも、こうして卒業式に臨み、厳かな空間に身を置いてみると、静まり返った心の奥で、介護士という職業が光り輝くのが見えてきた。友人たちのように、思いっきり若さを楽しむのもいい。でも、いずれはその先を考える時がやって来る。自分にはそれが早く訪れたのだろう、早紀子はそう受け止めた。
 式典が終わり、校庭でしばらくの間、友人たちと別れの時を惜しむ輪の中で、笑顔を振りまく早紀子。そして再会を約束し、学校を後にした時には、早紀子はもう前を向いて歩いていた。伯母のところの手伝いを終えてから歩く、自分の道に向かって。
 
 その夜、明日の準備に真中家の台所は保子と由紀子の戦場となっていた。大人六人分の料理だけでも大変なのに、幼い子どもたちの別メニューも用意しなければならない。その下ごしらえに追われ、今日の晩ご飯はかなりの手抜きになりそうだった。そんな時に電話が鳴り、保子は二階に向かって叫んだ。
「早紀子! ちょっと電話に出て!」
 階段を駆け降りてくる足音の後で、電話を持った早紀子が現れた。
「お兄さんからよ」
「え? 何かしら」
 保子はタオルで手を拭きながら、子機を受け取った。
 
 五分後、三人は気の抜けた様子でテーブルを挟んで座っていた。
「前の晩にドタキャンはないわよね」
 ふくれっ面で早紀子がぼやいた。
「でも、お兄さんだけは来るのだから、キャンセルではないわよ」
 妹をなだめ、兄をかばうように由紀子が言った。
「だって、主役ののどかが来ないんじゃね、お義姉さんも長男の嫁としてどうかと思うわ」
「早紀子、いつから嫌味な小姑になったの!」
 由紀子にたしなめられて、早紀子は首をすくめた。
「明日、来てから理由を話すそうよ。お料理、作り過ぎっちゃったわね。でも、帰りに持たせてやればいいのよね」
 保子は自分を納得させるように言った。
 
 そして、翌日の昼過ぎ、高い敷居をまたいで浩一はやって来た。
「本当にゴメン、急なことでバタバタしちゃって」
「まあ、いいから座れ。久しぶりに一杯やろう」
「ああ、ゴメン、車で来ちゃったから」
「なんだ、気の利かないやつだな」
 父と息子のやりとりに母が割って入った。
「それより、子どもたちに何かあったの? それとも多恵さんに?」
「いや、その……実は、三人目ができたんだ」
「おう!」
「あら」
「おめでとう、お兄さん」
「な〜んだ、それならなおさらお祝いなんだから来ればよかったじゃない?」
「多恵さん、体の具合でも悪いの?」
「いやあ、昨日医者へ行ってはっきりおめでただとわかったんだけど、その場でそれを向こうの両親に知らせたんだ。そしたらさ、お祝いをしたいから来るようにって言われて、昨日その足で行ってきたんだ。
 ところが夜になって、急に多恵の具合が悪くなって。今は大事な時期だから、こりゃ大変だということになってね。今日こちらへ来るのは無理だと思ってすぐに連絡入れたんだよ。そのまま、子どもたちと泊まっているし、やっぱり、今日は無理だったな」
「何それ? こっちの方が先口だったよね?!」
「早紀子、やめなさい!」
「本当にゴメン。俺、これから多恵に頼まれた買い物があるんだ。子どもたちも預けっぱなしというわけにもいかないし。
 これ、早紀子の卒業祝、じゃ、また今度ゆっくり寄らせてもらうよ」
 浩一はそう言い残し、慌ただしく帰って行った。四人の前には、浩一が置いていった『ご卒業祝』と書かれた祝儀袋。それを見つめながら保子がぽつんと言った。
「結婚すると息子はお嫁さんのものとよく言うけど、本当なんですね……」
 
作品名:暦 ―こよみ― 作家名:鏡湖