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短編集44(過去作品)

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 追いつけることもなく、死んでしまった父、父にいろいろ聞きたいこともあったが、なかなか言い出せないでいたのは、年齢的に成長期にあったからだろうか。もう少し落ち着いて二十歳を超えていれば聞けることもあっただろう。それが今となっては口惜しい。
 だが、父と彰浩の嗜好はかなり違っていたようだ。尊敬はしていたが、どうしても仕事中心の生活で、家庭をあまり顧みようとしない父は、子供から見ればあまり嬉しい存在ではない。それは彰浩にとっても同じで、父とゆっくり話すこともなかった。
 逆に一緒に話すと、何かあら捜しをされているようで、あまり気持ちのいいものではない。
――それこそ仕事人間の目だ――
 と思えてならない。
 一般常識という言葉に嫌悪を感じていた時期があった。それは父がその言葉をよく口にしたからだ。父が言い始めると、従わなければいけないと思うのか、母まで言い始める。しかもその言い分が彰浩にはとても承服できるものではない。
「お父さんに言われるわよ」
 何が嫌といって、このセリフに、吐き気がするほどだった。
――自分の意見じゃないのかよ――
 と言いたい。自分の意見であれば、まだ自分なりに考えなくもないが、自分の意見でないのなら、それ以上何を考えればいいというのだ。何が嫌といって、自分の意見もないのに、人に説教をするほど馬鹿げたことはないと思っている。それもトラウマが残る原因だったことは言うまでもない。
――母にとって父とはどんな存在なのだろう――
 と考えてしまう。
 最初に出会って、付き合い始めて、結婚する。その間に変化があったのか、それとも、結婚生活に入ってから変化があったのか、どうなのだろう。結婚前から今のような態度で結婚したようには思えない。それともどこかにもっといいところを見つめていたのだろうか。
 彰浩には分からない。子供として見るからなのか、それとも男としての目から見るからなのか、どちらもあるに違いない。
 歴史の勉強をしていると特に感じる。昔の人間の考え方を見ていると、親の考え方に似ているところがあるからだ。歴史を勉強するのが好きだといっても、本を読んでいた頃の彰浩は人間の気持ちの中というよりも、史実に基づいたところの人間模様に感動していたのだ。
 歴史が人間を変えるのか、人間が歴史を動かすのか、それは究極のテーマであり、永遠に交わることのない平行線を見続けているような気持ちになってくる。
 まるで父と彰浩自身のことのようではないか。同じ世界に住んでいながら、気持ちは違う次元に存在しているように思う。それは彰浩の家庭だけに限ったことではないだろう。皆それぞれ思っていて口に出せないことではないだろうか。
 彰浩が会社に入ってすぐの頃だろうか、やけに親切にしてくれる女性社員がいた。年は四つほど上くらいだったはずで、短大を卒業しているので、会社では六年目、かなりのベテランだった。
 課の仕事に関してはおそらく彼女が一番把握していただろう。当然課長といえども一目置いている。課長職ともなれば移動も激しく、一体彼女が在籍中に課長が何人代わったことか。
 名前を秋絵と言った。水沢秋絵、確かそんな名前だった。思い出したくもない名前、そう思い始めた頃には、すでに遅かったのかも知れない。
 だが彰浩は幸運だったようだ。
 最初は秋絵の方から近づいてきた。先輩なので滅多な態度は取れない。しかも課では影のドンと言われている女性である。様子を見るつもりだった。
 しかし、彼女は思ったよりも積極的で、飲み会などあると必ず彰浩の隣にいた。
「私がいろいろ優しく教えてあげる」
 舌なめずりをしていそうで気持ち悪かったが、アルコールを飲むと寂しくなるくせのある彰浩は一瞬気を許してしまった。
――いとおしい――
 思ってはいけない相手に感じてしまった。気がつけば抱きしめていたのだが、それがどこでだったのかすら覚えていない。
 暗かったことを思えば、ホテルに入ってすぐだったようにも思う。そのまま倒れこんだ記憶があるからだ。どちらからともなく唇を求める。後は男と女の世界、甘く切ない時間が二人を包む。
――前にも同じような甘い経験があったような――
 実は彰浩はその時が初めてだった。だが、初めてだという気がしなかったことが、彰浩の気持ちに拍車をかける。
――もう、どうにでもなれ――
 心の奥では、相手がまずいことは分かっていた。まわりからも散々悪しき噂を聞かされていたし、実際に自分が普段話していて感じていたことだ。
――それなのに……
 もう後には引けなかった。
 案の定、その日以来秋絵は女房気取りだ。一人暮らしの彰浩の部屋へやってきては上げ膳据え膳、それはそれで嬉しいのだが、過ぎたるは及ばざるが如し、しつこすぎるのも却って鼻持ちならない。
 それでもあまり飽きが来ない彰浩なので、どれくらいの間嬉しかっただろう。数ヶ月は彼女ができたくらいのつもりで嬉しかった。秋絵もよく尽くしてくれるし、何の問題もないように思えた。
――皆が噂しているほどじゃないな。結構家庭的なところがあって、引っ込み事案でもあるし、悪くない――
 と思ったものだ。
 しかし、それも気持ちがまったく変化しない時期だけだった。さすがに敏感なところのある秋絵の態度が微妙に変わった。そしてしばらくすると、それは彰浩自身の気持ちの変化によるものであることに気付いたのだ。
――自分では分からない気持ちの変化だけに、怖いものだ――
 今まであれだけ従順だった秋絵に見え始めた猜疑心、女の抱く猜疑心は底知れぬものだという認識があり、それが嫉妬に繋がると恐ろしい。
――自分の気持ちが変わったのだろうか?
 いまいち分からない。気持ちの変化はないつもりだが、相手に少しでも変化があると、変わったような気持ちになるのが不思議である。
 お互いに何となくぎこちなくなる。しかも今まで感じたことのなかった「お局様」を感じ始めると、もう止まらない。
「あなたは、私のことを大切に思ってくれないの?」
 と言われた時は、晴天の霹靂だった。
「大切に思っているさ」
 と口では言ったが、大切に思っているつもりでいたのを、再度確かめるような言われ方をして考え直してみると、本当は大切に思っていなかったのではないかと思えてならなかった。
――人から言われてこれほどいろいろ考えるなんて――
 今までにはなかったことだ。真剣に向き合っていたかどうかすら今から思えば分からない。ひょっとして軽い遊びだったのかも知れない。
――ちょっとした火遊びに近い感覚――
 まだ若かった。会社に入ってすぐのことだったではないか。言い方は悪いが、まだ自分の気持ちが整理できていない隙間に入り込んできた秋絵という女。この時期が自分にとっていい時期だったのかどうかは、かなり後にならないと分からないと感じていた。そしてそれは間違いのないことだった。
 秋絵とぎこちなくなると、仕事も少し滞ってしまった。どうしても会社で見かける相手である。仕方ないことだが、そんなことではいけない。
作品名:短編集44(過去作品) 作家名:森本晃次