Deep gash
荘介は言い回しに笑いながら、緊張が解けてようやく手足に力が返ってきたように感じながら、花屋の方を向いた。
「見にいこか」
「はい」
あやめは花に詳しい。荘介より先に店の中に入ると、屈みこんで花びらにくっつくぐらいに顔を近づけ、大きな目でじっと見つめながら言った。
「こんなん、自然にできるわけないですよね」
「どういう意味?」
同じように屈みこんだ荘介は、言った。あやめが見ている花を手で引き寄せようとすると、花に触れる直前にあやめがその手を止めた。
「直接触ったら、あかんのです」
「そうなんや、ごめん」
「自然にこんな綺麗な形になるって、すごくないですか? なんかもっと、変な形になっても良さそうやのに」
あやめは、熱を帯びた両頬を冷ますように手を当てながら言った。荘介は言った。
「自然にできたもんのはずやのに、おれらの目には綺麗に見えるようになってるってのも、不思議やと思った」
あやめは、花と話すように小さくうなずきながら、荘介の方を向いた。
「そうですよね。わたしらの方が不思議なんかも」
荘介は立ち上がると、棚に置かれた鉢を手に取った。同じように立ち上がったあやめに、鉢に咲く紫色の花を重ねて言った。
「これ、雰囲気似合うね」
「ダイヤモンドリリーですね。頭につけてこかな」
言いながら笑うあやめを見て、荘介は一時、花が好きなあやめについていけるように花言葉を調べていたことを思い出した。頭につけるには大きすぎるダイヤモンドリリー。花言葉は『また会う日を楽しみに』
あやめは荘介の手から鉢を取って、言った。
「これにします。あ、コーヒーとか飲むんやったら、先に買ったら荷物になりますかね? そもそも、コーヒー飲みます?」
「いいよ、おれ持つし。津田さん、コーヒー苦手ちゃうかった?」
「はい、苦手です。一回壊してから、胃が強くないんです」
「なんで試練与えるねん、コーヒー以外にしよか」
鉢の入った袋を傾けないように細心の注意を払いながら、荘介は駅ビルの中にある喫茶店を調べて、歩き始めた。三年間メールのやりとりだけをしてきた。この我慢は一体なんだったのか。あやめは時々荘介の方を向いては、目が合いかけると慌てて逸らせながら、エスカレーターに乗ってお互いの足が止まってから、言った。
「家族の仲はいいですか?」
「いいよ。親父の知り合いはガラ悪いから、ちょっと苦手やけどね。カッパて呼ばれてるおっさんとか、何しとんか分からんし。兄貴は話が合うみたいやけど。津田さんは?」
「その苗字、やめませんか」
あやめが言うと、荘介は笑った。
「でも、津田って苗字は変えられんやん。おれはずっと横井やで」
「そうやないんです。お母さんもわたしも津田さんやし、こんな苗字のひといっぱいおるから」
エスカレーターの手すりに半分体を預けている荘介は、やっと真意が分かったように言った。
「あやめさんは、お母さんと仲いいの?」
名前を呼ばれたあやめは、手すりを力いっぱい握り締めて俯いた。
「はい、仲はいいです。やっぱり津田でいいです。呼び捨ててください」
「それはようせんわ」
エスカレーターが終わり、名前の話も同時に終わった。自分の足で再び歩きながら、荘介は祐介にメールを送った。そろそろ映画が始まるころだ。
『のいちんの運転、どない?』
祐介からすぐに返信が届いた。
『スーパースリルライドやったわ。ようあれで毎週来とるで』
昼の一時前、空になったポップコーンのバスケットを抱えた祐介は、映画の内容がほぼ頭から飛んだ状態でスクリーンから出ると、エンドクレジットが流れ終わってからずっと話している野市と杏奈の様子を見ながら、出口でごみの回収をしてくれている店員にバスケットを手渡した。二時間かけて観た内容を整理すると、カップルが喧嘩別れして、女は違う男とくっつきかけるが、元々付き合っていた男の素晴らしさを知り、人生で一回レベルの神がかった偶然が連発した結果、また一緒になる。ただそれだけだった。続編があるなら、また最初に喧嘩別れするのだろうか。
「兄ちゃん、どやった? 参考になった?」
杏奈が言い、野市が笑った。
「何がじゃ。学ぶつもりでは観てなかったわ」
祐介の言葉に、野市が補足するように言った。
「いいですよね。あの場所で、ちゃんと待ってましたよね」
祐介は呆れたように笑った。
「あの偶然はすごい思ったわ。メールしたら済むのに、ずっと待っとったんやろ」
「偶然ちゃうし。最初に伏線あったやんね」
杏奈が言い、野市と顔を見合わせて笑った。祐介は肩をすくめると、入るときは長蛇の列になっていて買えなかったドーナツ屋の屋台がやや空いていることに気づいて、言った。
「あれぐらいやったら並べるか。ドーナツ食べる?」
杏奈が首を強く縦に振り、野市も若干そのテンションに押され気味にうなずいた。
「いいんですか」
「うん、味どないすんの」
祐介が言うと、野市は生まれたときから決めていたように、言った。
「プレーンなやつをお願いします」
「わたしも」
杏奈が言い、三人で仲良く並んだところで、祐介は笑った。
「買って持っていくで」
「じゃあ、車で待ってます」
野市と杏奈が駐車場の方へ歩いていき、すぐに自分の番が来た祐介は、プレーンを三つ頼むと、大きな箱を提げて外に出た。身障者スペースに斜めに停められたセレナの運転席で、男が背もたれを倒してダッシュボードに足を乗せているのが見えて、舌打ちした。
「偉そうにしとんなボケが」
祐介が『スリルライド号』と名づけた赤色のカローラランクスに野市と杏奈がもたれかかって、映画のワンシーンを再現するように話しているのが見えた。祐介がドーナツの箱を顔の位置に掲げると、気づいた野市が手を振り、運転席のドアを開けた。
すぐ真横を風が切り、祐介は思わず首をすくめようとしたときに、首の後ろに何かがぶつかる衝撃を感じて、前のめりに倒れた。ドーナツの箱が自分の体で潰れ、顔を上げた先にヒビの入ったミラーが転がってくるのが見えた。猛スピードで発進したセレナがカローラランクスの目の前で急ブレーキをかけて停車し、固い衝撃音を鳴らした。スライドドアが開いて男が二人降りると、一人がカローラランクスの助手席に、もう一人が後部座席に乗り込んだ。祐介が立ち上がって走り出すのと同時に一度車体をバックさせたセレナが、跳ねるように加速して走り去った。その後ろをカローラランクスが追いかけるように走り、駐車場の減速帯を猛スピードで飛び越えながら路地に向かって急ハンドルを切り、見えなくなった。
助手席に乗り込んだ男に何かを突きつけられる野市の顔が、一瞬だけ見えた。頭を押さえて俯いた祐介は、自分の足跡がアスファルトに残っていることに気づいた。後ろを振り返ると、それは血だまりに伸びていた。祐介は自分が踏んだ血の海の真ん中に杏奈が倒れていることに気づいて、駆け寄った。
「おい、杏奈」
体を仰向けにしようとしたが、力をなくした杏奈は信じられないぐらいに重く、逆らうように中々言うことをきかなかった。
「おい……」