Deep gash
「祐介、こんなんなったらあかんぞ。勉強せえよ」
高校受験を控えた祐介は、問題集を傍らに置いたまま小さくうなずき、楢崎の腰に視線を送りながら言った。
「痛めたっすか?」
順が代わりにうなずいた。全部のテーブルを新しいガスコンロに入れ替えたばかりの店内はどこか空気が澄んでいて、自分の体が軽くなったように感じる。祐介は、半年前からうるさい音楽を聴くようになった。今は、同じような曲が好きな楢崎を、音楽の師と仰いでいる。桃子が煙草の煙を宙に吐きながら笑った。
「トラックに輪っかのクッション置かなあかんね」
衛が笑い、五年生に上がったばかりの荘介に言った。
「これからはな、浮き輪に座ってトラック運転しよんねん」
荘介が声を上げて笑い、桃子も釣られて笑った。愛子が、足元にすがりつく杏奈をあやしながら順の隣に座って、新しい焼酎のボトルを置いた。
「これ、開ける?」
「せやな。あんま飲みすぎたら明日にさわるぞ」
「大丈夫やろ」
定休日に家族で集まるのは、久しぶりだった。全ての問題が解決したわけではないが、少なくともここ数年は大変だった。経営は立ち行かず、衛の知り合いを辿って津田から金を借りたのは、最悪の選択だった。名義上は妻の春美が経営者だが、実際には裏にヤクザの夫がいる。津田建造。半年前に完済したはずの借金。契約書に書き足されていた手数料。建造がその分の請求に訪れたのは、二ヶ月前のことだった。
『よう読んどかんかいな』
春美から直に電話がかかってきて、『順ちゃん堪忍して。ダンナもアホやから上から絞められとるねん』と泣きが入ったのが先月。借金を返済することで新たに借金が生まれている。そんな状況に陥っていたのだ。どうにかしてその分は工面できそうだが、今後ずっと建造につきまとわれる可能性もある。祐介と荘介は公立の学校に通っていて手がかからないが、三歳の杏奈はこれからだ。
楢崎と桃子の間には、子供がいない。気楽かというとそうでもなく、楢崎が浮き輪なしではトラックを運転できない体になりつつある。ヘルニアは思ったよりも重症だったのだ。経理をやっている桃子の稼ぎだけではどうにもならない。衛は店を構えてはいるものの、付き合う相手は人間の屑ばかり。収入も安定せず、結婚もしていない。
「心配事?」
焼酎の氷を割り箸の端でかき混ぜながら、愛子が言った。順は首を横に振った。
「お前は心配すな」
外の空気を吸っていると、衛が出てきて隣に立った。
「厄介やな」
春美から昨日かかってきた電話。あの隙のない出で立ちからは想像もつかなかった。順は、春美の精神はすでに粉々になったガラス片でできていると常々思っていたが、実際には違った。電話の向こうで、春美は泣いていた。
『ごめんな順ちゃん、こんなこと言うて』
春美は本題に入る前にそう言い、どんなことを言うつもりなのか順が待っていると、息を整えて言った。
『あいつ、浮気してんねん』
建造が誰と浮気しようが勝手だ。しかし、春美の相談に乗っておけば、建造が好き勝手に入り込んでくるのを止めてくれる可能性もあった。順は、春美のことをそこまで悪く思ってはいなかった。素手で触ればガラス片で手をずたずたにされるが、手袋をはめていればどうってことはない。春美は、金貸しにしてはフェアな精神の持ち主だ。
『手数料な、色つけて返すから』
春美の言葉には続きがあった。
『殺してくれへん?』
順は、煙草の煙を宙に吐いた。
「本気で言いよったんかな?」
「知らん。金持ちの考えることは分からんわ」
衛は苦々しげに言った。順は煙草が手の中で焼けていくのを見ながら、呟いた。
「俺はかめへん。お前はマエあるから、万が一があったら次は出れんぞ」
衛は鼻で笑った。
「好き勝手やってきたからな。今さらどうでもええわ。俺がやろか?」
順は首を横に振った。ずっと兄弟だったが、今は磁石が反発しあうように、共有しているはずの空気が切り離されていた。順は煙草の煙を深々と吸うと、真っ赤に燃える煙草の先が手にかかる直前で止め、長々と煙を吐き切ってから、言った。
「あの日本刀、まだあんのか?」
衛はうなずいた。ぴたりと張り詰めていた空気が揺れた。順は、右手の拳を一度握り締めてから、開いた。衛が言った。
「よう切れるぞ」
順はその場で春美に電話をかけて、言った。
「詳しく聞かせてもらえますか。祐介の受験が終わるまでは、待って欲しいねんけど」
「分かった。明後日、昼に来てくれる?」
春美の声は震えていた。順と衛は店の中に戻った。ギターはどのような角度で持つのが正しいのかということを力説する楢崎の頭を衛が叩き、荘介が笑った。祐介は手の角度を再現しようとしていたが、諦めたように楢崎から借りたCDのジャケットを見つめていた。座敷の壁にだらしなくもたれる桃子が眠そうな目で順を見上げた。濃いアイラインの引かれた、大きな目。昔から勘の鋭い妹だった。順は目を逸らせた。家族や兄弟が、初めて出会う他人のように感じる。その感覚が電流のように体を巡ったとき、確信した。
こんな日が来るとは思っていなかったが、俺は近いうちに、人を殺す。
ー現在ー
朝十時。待ち合わせ場所に三十分前に到着した荘介は、缶コーヒーを買って飲んだあとトイレに行き、戻ってきて今度はコンビニで雑誌を立ち読みしたあと、一旦外に出て、また店の中に戻ってを繰り返していた。女子と外で遊んだことは何度もある。でも、それがあやめとなると、全てが違った。大学のジャージを着ていけるはずなどなく、頭蓋骨が描かれた黒いTシャツと革ジャンしか持っていない祐介から服を借りるわけにもいかず、順が若い頃に着ていたジャケットを勝手に拝借した。順ほど身長は高くないし細身だが、袖を通してみると意外にぴったりとはまり、全く服のことなど気にしたこともなかった自分を呪いながらも、なんとか違和感のない外見に落ち着いた。朝、荘介の出で立ちを見た祐介は一度笑いかけたが、すぐ真顔に戻って両手の親指を立てた。それの意味するところは分からなかったが、駅ですれ違う人々の目線から判断すると、さほど変な格好でもないようだった。
「おはようございます」
真横から声がかかり、雑誌を閉じた荘介は隣を見た。女性誌と男性誌の棚の境目で、あやめはファッション雑誌を手に取ったが、すぐに戻した。
「おはよう」
荘介はかろうじてそれだけ言い、荘介よりやや小柄なあやめは、見上げるように笑いかけた。
「大人っぽいんですね」
「そうかな?」
荘介はジャケットを羽織りなおして、あやめと店の外に出た。向かいにあるショーウィンドウに映る姿を見て、顔を見合わせた。
「津田さんも、大人っぽいよね。おれら、学生に見えへんのちゃう」
あやめは自分のチェスターコートを見下ろすように確認して、少し頬を赤くしながら俯いた。
「これね、お母さんのなんです」
「これ、親父のやで」
荘介が言うと、あやめは今日一番の心配事から解放されたように笑顔になり、荘介のジャケットの生地を軽く引っ張った。
「いいやつですよね。わたしのも、自分の稼ぎではよう買いません」
「稼ぎって何よ」