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オオサカタロウ
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novelistID. 20912
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Deep gash

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 野市は一口食べるごとに目を丸くして、笑顔になり、感想を順に言い、杏奈に笑いかけるという所作を繰り返し、順が感想のメモを取っているところで、荘介が映画のタイトルを唐突に呟いた。順が手を止めて、荘介の方を向いた。荘介は言った。
「親父、知ってる? 恋愛もんの」
「知らん。洋画か?」
「のいちんも杏奈も、好きな監督なんやって。週末公開らしいよ」
 順はしばらくの間、ビールを飲みながら宙を向いていたが、最後の一口を大きく飲み込むと、野市と杏奈を代わる代わる見ながら言った。
「なんや、観に行くんか?」
 杏奈が小さくうなずき、野市が肩をすくめて杏奈に言った。
「すぐDVDになるよ」
「えー、待つん嫌や」
 杏奈がしかめ面で言うと、祐介が呆れたように順の顔を見た。順は同じく眉をハの字に曲げると、言った。
「いつ?」
「土曜日。いい?」
 杏奈が全員の顔に目を走らせながら言うと、順はうなずいた。
「ええよ。祐介、ついてけ」
「は?」
 祐介は目を丸くして、首を横に振った。
「土曜は練習あるから……」
「なんの練習や? あのメタなんとかか」
 順の言い草に、祐介はリストバンドを掲げて訂正した。
「メタリカやって」
 杏奈が茶化すように頭を振りながらドラムを叩く真似をして、笑った。野市は結論が出るまで表情に出さないようサラダとコップの間に視線を固定していたが、荘介が諦めたように手を挙げたのを見て頬を緩めた。
「おれが行くわ。二人とも、それでいいかな?」
 野市と杏奈が笑顔でうなずき、荘介は祐介を肘で突いた。
「自分、いつになったらカークハメットになんねん?」
「あいつを目指してもしゃあないやろ。すでにおるんやから」
 祐介が言い、順がその考え方に賛同するように小さくうなずいた。晩御飯が終わって野市が帰るのを杏奈が外まで見送り、戻ってくるなり居間のど真ん中に寝転がって絵を描き始めた。野市が来た日は、必ず何らかの絵を描いている。見せてくるときもあれば、そうでないときもあった。順は料理の味付けについて思いを馳せているようで、荘介と目が合うと、言った。
「味どやった?」
「おれはこれぐらいの薄味がいいと思った」
「やっぱりな」
 順は思うところがあるようで宙を向いたままソファに深くもたれると、数分も経たない内にいびきをかきはじめた。祐介が杏奈に言った。
「何描いてんの?」
「さっきの晩御飯」
 祐介はちらりと覗きこんで、口笛を吹いた。
「画家なりーや」
「嫌やし」
 杏奈はあっさり言うと、仰向けになって荘介の方を向いた。
「ありがと。めっちゃナイスアイデアやった」
「せやろ」
 荘介は言いながら、スマートフォンをポケットから取り出した。あやめに報告しようと思って画面を開くと、長いメッセージが一時間前に届いていた。
『土曜日なんですけど、泊りがけ演奏会の下準備で友達と会うってお母さんに言ってるけど、実際には会わないんです。なぜかというと、わたしはもう準備終わってるから。夕方出るんですけどそれまでは何もないんです』
 珍しく散らかった文章。荘介が何度か読み返していると、いつの間にか起き上がった杏奈がスマートフォンを掴んで引き寄せた。
「誰とメールしてんの? 彼女?」
「んなわけあるかい」
「そんな顔してた」
 荘介は杏奈の手からスマートフォンを取り返すと、早足で立ち去った。順がいびきをかくソファの前で返信を考える。杏奈は寝相の悪い順に押しつぶされそうになったことがあるから、寝ている父親の側には近づかない。
『自由時間?』
『はい』
『有効活用するの?』
『それは、もう』
 荘介はこの会話がどこへ行くのか考えながら、イヤホンから流れる曲に合わせて菜ばしで皿をシンバルのように叩いている祐介の方を振り返った。同時に手の中でスマートフォンが震え、新しいメッセージが届いた。
『部屋に飾るお花を選びに行きたいんです。どんなんがいいか選んでくれませんか』
 たった今、杏奈の映画ツアーに同行することが決まったばかりだ。返信を迷っていると、祐介が皿を振り回しすぎて手を滑らせ、危うく割りそうになったところで何とか止めた。荘介がさっと近寄ってイヤホンを左耳から抜くと、しかめ面で振り返った。
「よっぽどの用事やろうな?」
「あやめっておるやん?」
「おるな。なんやねんその言い方。照れてんのか」
「いや、お花選びに行きませんかて言われて」
「いつよ?」
「土曜」
 無言でイヤホンを耳に戻した祐介の逆側に回って、荘介は右耳のイヤホンを外した。祐介はため息をついて、荘介の顔をじっと見た。
「はい、なんでございますか?」
「お花選びに行きたいんです」
 あやめの口調を真似て言うと、祐介はしばらく換気扇を見上げていたが、順がいびきをかいているのをちらりと確認してから、ようやくうなずいた。
「分かった。お前、親父になんて言うつもりやねん」
「言わん。ライブの練習は大丈夫なん?」
「あー、あれは嘘。ごめんちゃいね」
 祐介は肩をすくめた。荘介は汚いものを目の前に差し出されたように目を細めた。
「自分、そういうとこやぞ」
「何がじゃ。無理から一人で路上ライブしたろか」
「風邪ひくからやめとき。ありがと」
 荘介は手を合わせて礼を言うと、床に寝転がる杏奈の背中をぽんと叩いた。
「祐介が一緒に行くって」
 杏奈が何かを言いかけたが、荘介は先に返信を送った。
『是非』
 三年前、焼肉屋で盛り上がった後、演奏会に招待するから来てほしいと言われた。今でも一字一句覚えている。『プロとかじゃないんで、家族か招待した人しか、呼ばれへんのです』
 直前に演奏会自体がなくなったとメールが入って、そんなこともあるのかと納得していた荘介は、後からインターネットで調べて、その日は確かにあやめの通う学校の演奏会が行われていたことを知った。同時に、焼肉会の後、順が帰り道に言ったことを思い出していた。『あの家の連中とは、個人的な付き合いはするな』。それ以来、会おうと思っても言い出せず、向こうから誘いが来ることもなかった。荘介が『是非』の返信を待っていると、順がソファの上で跳ね上がって唸り声を上げた。
「あー、寝とったわ」
「寝ても起きても騒々しいな」
 荘介が笑いながら二階に上がって行き、杏奈が絵を描き終えて部屋に戻り、洗い物を終えた祐介が最後に二階へ上がった。誰もいなくなった居間で、順はメモ帳を繰りながら思った。ずっと人数分より一人多かった椅子。そこに野市が座っていたのは、不思議な感覚だった。八年前に、愛子が座っていた椅子。どうしても、切り離せない顔がもう一つ。津田建造。その名前を呼び起こしても、もう何の感情も湧いて来ない。順はウィスキーを一口飲んだ。唯一腹が立つのは、あの空いた椅子に座っていた頃の愛子の記憶と切り離すことができない、自分の頭の不器用さだった。
 お互いの家族のこと。それを公平な場所で数年おきに確認する。家族の名前から顔まで、全てを把握することで、お互い手出しができない力関係を作る。順は、八年前にその協定を春美と結んだ。
 

ー八年前ー

「腰ね、最近寒なってきたでしょ。ちょっと、ちょっとね」
 楢崎が十五歳の少年に頭を下げながら答えている姿を見て、衛が笑った。
作品名:Deep gash 作家名:オオサカタロウ