Deep gash
荘介はリストバンドを脇にどけると、ラザニアとサラダを並べた。廊下に置いてあるバスケットに入ったお菓子を取ると、杏奈は怒る。それは野市が来たときに出すためのお菓子で、本来は家族の誰かが授業の途中に部屋に持ってくるものだと杏奈は力説したが、荘介も含めて誰もそれを覚えていられる者がおらず、結局バスケットから取るセルフサービス形式に落ち着いた。全員の部屋が用意された、二階建ての大きな家。車庫には『親父の車』。古いスカイラインで、家の用事で体調を確かめるように動かす以外は埃をかぶっている。荘介は、祐介が車を買ったら自分の車を買ったときに置き場所がなくなると心配していたが、祐介が自分の車を持つような予定は、金輪際なさそうだった。今はライブハウスで練習をしているに違いないが、大学を出た後は無職のままで、免許も持っていない。荘介は免許を取ったばかりの初心者マークだが、順に次ぐ運転係。埃がたまりすぎたら洗車し、面倒なマニュアルを操作しながら送り迎えをすることもある。荘介はテーブルの傍らに置いたスマートフォンにSMSが届くのを見ながら、ラザニアに集中した。
「返事せんの?」
杏奈が言うと、荘介は首を横に振った。
「横井家、家訓」
「もー、それやめてよ」
「家訓その二、人間の値打ちは底力で決まる」
「関係ないし」
杏奈が声を出して笑い、荘介も笑った。横井家には家訓が三つある。それとは関係なく、杏奈には食事中に携帯電話をずっと操作しているような人間になってほしくないという、ただそれだけの理由だった。この時間帯によく連絡をくれるのは、家ぐるみで付き合いをしている津田家の一人娘。あやめと連絡を取り合うようになったのは、三年前に津田家と横井家で焼肉を食べに行ったときだった。腹を壊していた祐介に気を遣って奥に座ったことであやめと向かい合わせになり、最初はクラシックを愛する隙のない才女に見えたが、焼肉をつつきながら話している内に会話が弾み、『食事会』が終わるころには、演奏会を観にいく約束をするぐらいに打ち解けていた。それは実現しなかったが、連絡を取り合う仲は続いている。
「どんな映画?」
荘介が言うと、杏奈は待っていたように、居間に置かれた雑誌を取って帰ってくると、荘介に差し出した。
「真ん中のやつ」
荘介はあらすじを読んで、露骨に顔をしかめた。
「恋愛もん? ちょっと早ないか?」
「のいちんは、この監督が撮る映画は全部観てるんやって」
一階の奥で唸り声が聞こえ、二人は顔を見合わせた。
「親父起きたんちゃうか。話そか?」
荘介が言うと、杏奈は首を横に振った。
「まだ言わん」
荘介は納得したように肩をすくめると、ラザニアを食べ終えて皿をシンクに放り込み、受信したSMSメッセージを開いた。あやめからで、『緊張したけど、無事終わりました』という文章とともに、演奏会の集合写真が一緒に届いていた。三年前の焼肉会以来、直接顔を合わせたのは数えるほど。あやめが高校に入学してすぐ、友達と町を歩いているところにばったり出くわしたのが一回と、春美が『和音』に来たとき、近くに停めた車の中で待っていたのを見かけて、立ち話をしたのが一回。それ以外は、顔を見た程度。そもそも住んでいる地域が違うから、生活で使う店も違えば、集まる場所にも共通点はない。横井家は庶民の暮らす住宅街の中で最も大きな家だが、津田家の一軒家は、高級住宅街の中でも目立つ豪邸だ。荘介は短い返信を送った。
『センターやん、おつです』
あやめは真ん中に写っていた。自分の背後に大勢の人がいるのが少し不安なようで、それは少し強張った口元から読み取れた。
『センターてなんですか?』
すぐに返信が届き、荘介は寝起きで夢遊病者のように歩く順をやりすごしながら、返信を送った。
『真ん中にいてるから』
返信を眺めながら、あやめは自分が送った写真を見返して、呟いた。
「……、それだけ?」
演奏会の前、春美は少しだけ化粧をした方がいいと強く勧め、あやめは演奏に集中できないかもしれないという不安から嫌がったが、結果的に言うことを聞いた。随分と顔の雰囲気は変わったはずだったが、最初の反応は誰もが気づくであろう『真ん中』にいるということ。返信をするか迷っていると、追加で新しいメッセージが届いた。
『聴いてみたいわ』
まだ返信はしない。あやめはオーディオの再生ボタンを押し、B&Wの巨大なスピーカーからドヴォルザークのバイオリン協奏曲イ短調が流れ出すのを待った。緩やかで美しい第二楽章、バイオリン奏者はイダヘンデル。録音は一九四七年。音楽のことを考えると、体を巡る緊張がふっと抜ける。今は、昼ごはんを食べて、バイトに出かけるまでの時間。その間に望んだ通りの返信が届くのを待っているのだ。もう一件が追加で届き、あやめはスマートフォンを手に持ったままスピーカーの前に座ると、内容を読んだ。
『めっちゃ大人になってない?』
『お母さんに、化粧したらって言われたんです。中身はそのまんまなんですけど』
あやめはすぐに返信すると、バイトの準備に取り掛かった。忘れ物がないように、全てを等間隔にベッドの上に並べて、口を横一文字に結ぶ。忘れ物をするほど大した持ち物はない。財布、スマートフォン、ハンカチ、リップクリーム、小さな筆箱とメモ帳。しばらく見つめていると、持ち物として確認待ちの状態になったスマートフォンが光った。映画のタイトルが書かれていて、それはあやめも知っている、次の土曜日から公開される作品だった。しばらく待っていると、続きが届いた。
『杏奈がカテキョと行きたがってるんやけど、いいと思う?』
あやめは椅子に腰掛けて、オーディオのボリュームを下げた。
『恋愛ものですね。杏奈ちゃん分かるのかな』
『多分分からんやろけど、観たいゆうて聞かん』
『わたしは、それぐらいいいんちゃうかと思います』
あやめは、ここまでやり取りが続くのが久々なことに気づき、ベッドに並べた持ち物を避けるように、余ったスペースに寝転がった。
『親父のOKをもらわなあかんねん』
親父と呼ばれる、横井家の家長。あやめも顔を知っているし、三年前の焼肉会では一キロ近い肉を食べていた。
『お父さん、黒いですもんね』
送ってから自分でも意味が分からなくなり、画面を見つめていると、しばらく間が空いてから返信が届いた。
『色? まあね。どやったら白くなると思う?』
『断りにくい雰囲気出してから、話したらどうですかね』
『それやな。ありがと。結果教えてもいい?』
『お願いします』
テンポ良く返事を送り、あやめは最後に『またね』と書かれた絵文字を送った。返信は自分から断ち切らないと、バイトに集中できない。
「今? 駅から歩いてる。うん、その音」
「あまり飲みすぎたらあかんよ」
平日に飲みに行く前の、電話でのいつものやり取り。上田隼人は、全てのフロアに居酒屋が入るビルの前で、三年の付き合いになる寒川由紀と話していた。人が行き来する中、向こうの声は耳を澄ませないと聞こえない。寒川はおっとりとした話し方で、あまり声が通るほうではない。上田は空いている方の耳を手で塞ぎながら、柔らかな寒川の声に耳を傾けていた。寒川は呟くように言った。