Deep gash
メルセデスの助手席でオレンジ色の光が等間隔に流れていくのを眺めながら、津田あやめは肩にまだ少し残る緊張をほぐそうと、体をシートの中でずらせるようによじった。ハンドルを握り、真っ直ぐ前を見ていたはずの津田春美はすぐ気づいて言った。
「上手かったよ」
「そうかな……」
あやめはオーケストラ部に所属していて、演奏会と打ち上げが終わったばかりだった。厳しいことで有名な私立の女子高に通う二年生で、真面目な生徒が多く、午後九時以降に外にいること自体が物珍しかった。校則を破っている生徒もいるし、明らかに夜遊びをしている同級生もいる。しかし、あやめ自身は特に、ルールの外へ逸脱することに楽しみを見出すこともなかった。今頭の中を占めているのは、指揮者を務める顧問と目が合う瞬間に、その感情が手に伝わったということ。理不尽に怒られたときの言葉の選び方や、偶然廊下ですれ違ったときに感じる、『顧問』と『部員』の関係が切れたことによる微かな視線の違い。一瞬の内に頭の中を巡ったそれは、ほとんどが外に出ることなく無事打ち消される。今日は、そうではなかった。
頭の中は自由でも、手は機械でなければならない。あやめはファーストバイオリン。指揮者からも、他の演奏者からも見られている。部員の中で一番仲の良い大川希美は、セカンドバイオリン。あやめと同じで顧問のことは良く思っていない。
『なんか、無理するのあほらしくなってきた』
大川は、常人の理解の範疇を超えた努力をしてから、さらりとそんなことを言う。そして、そんなことを言う資格があるのは、並外れた努力をしている人間だけだということも、あやめは知っている。
「一瞬やもん」
あやめが言うと、春美は指示器に指を添えながら、ちらりと助手席に視線を送った。
「私は、あの一瞬が好きやけど。指揮棒がサッて下りてから、あやめの体が動く瞬間」
あやめは少し俯いて、笑った。
「あとは長いもんね。お母さんが聴く曲より」
「そやな、アルバム一枚分あるね」
春美は指示器を出そうとして、追い越し車線を猛スピードで走るハイラックスのヘッドライトに目を細め、やり過ごした。前を走る製薬会社の営業バンは、ドライブレコーダーをつけているのだろう。時速百キロ近いスピードで流れる幹線道路を頑なに法定速度で走っている。
「追い越したいん?」
あやめが言うと、春美は一瞬笑顔になると同時に指示器を右に出し、アクセルを踏み込んだ。ただの高級セダンではなく、AMGE63という恐ろしい馬力を発揮するモデル。もう六年目になるが、二人とも気に入っており、春美は高すぎるタイヤ代やメンテナンス費用をこまめに捻出しながら、高校を卒業したあとにあやめが取る進路のことを考えていた。全てのバランスを上手く保つ必要がある。時速百キロの流れに乗ったところで左車線ががら空きになり、春美はメルセデスを元の車線に滑り込ませた。製薬会社の営業バンは、点のように見えるヘッドライトの光になっていた。オーディオから小さく鳴っている音楽が切り替わり、イントロを聴いたあやめが笑った。
「またこの曲や。好きすぎん?」
「なんぼでも味出るから」
春美はボリュームを上げた。若いころから、昔のロックが好きだった。四十五歳だから、そういう曲をリアルタイムに聴いて育った世代ではないが、自分と同じ世代の間で流行る音楽には、なかなか興味が持てなかった。学生時代の自分は浮世離れしていた。そういう意味では、あやめは良く似ている。しかも現在進行形だ。春美の切望した進路に合わせて一貫で高校まで来たあやめは、どこか浮世離れ『している』。悪い子ではない。むしろその逆だ。週末には、春美の知り合いの花屋でアルバイトもしている。一応反抗期らしいものもあったが、そのときは額に大きく『ただ今反抗中』と書いてあるように分かりやすく、むしろないほうが心配しただろう。唯一の例外は、三年前の冬。担架の上で色を失ったあやめの顔を見ていたとき、体のどこにも力が入らず、救急隊員二人に抱えられてようやく救急車に乗り込んだ。
子供の頃からピアノとバイオリンを習い、結果的に、オーケストラ部のファーストバイオリン。あやめはその道を極めるための、理想的な場所にいる。しかし、それが本当にやりたいことではないように見える。ソファにごろりと横になって楽譜を見つめるときの目や、試しに化粧を施してみたときの反応。春美は娘の美しい顔立ちがさらに強調されたと会心の思いだったが、あやめは鏡で自分の顔を見て、大笑いした。
『えー、派手や〜』
それが、十五歳のときのあやめの、自分の未来像に対する率直な感想だった。そこから二年が経って、少し背が高くなったものの、まだ自分の顔を見て大笑いしそうな雰囲気を残したまま、あやめは言った。
「ホワイトラビット」
春美は目を丸く見開いて、センターコンソールに映る小さな文字をさっと隠した。
「正解、じゃあバンドは?」
「えー、そこまで知らんし」
言いながら、春美が隠す指の隙間をこじあけるように少し開いて、あやめは目を細めた。春美はその様子に笑いながら、言った。
「なんちゅうやらしい見方すんの」
「ジェファー……? ジェファーか」
「ジェファーソンエアプレインな。諦めるん早すぎんか」
言いながら、春美は思った。あやめは、自分と話すように、あのバイオリンをレンガブロックのように扱う大川さんや、常に胃に穴が空いていそうなコントラバスの琴森さんと話しているのだろうか。いや、話せているのだろうか。面白い子だと思う。でも、友達同士の間では、顧問曰く『静かな子』らしい。
大学の進路はほぼ確定している。高校の友達を、あやめはどうするのだろう。大学はエスカレーターではなく、外部の大学を志望している。そのとき、人間関係はどうなるのだろうか。長い付き合いの友人が多い春美には想像もつかないが、あやめは一人になることを選ぶような気がする。春美はときどき夜中にその考えに起こされ、意味もなく娘の寝顔をちらりと見に行くときがあった。
家に着いて、玄関で靴を脱ぎ、すぐにソファへ直行しようとするあやめを洗面所に送り込み、春美は壁にかかった時計を見た。夜の九時半。明日は日曜日。お風呂の準備を始めたあやめに、春美は言った。
「明日は家?」
「うん、おるよ」
湯が張られる音に混じって、少し篭った声が返ってきた。春美はベージュのチェスターコートを着たまま髪を後ろでくくった。
「ちょっと、お母さん出かけてくるで」
「はーい」
春美は高級住宅街を通り抜け、駅の前にあるタクシー乗り場で、ひときわ退屈そうに待つ一台に乗り込んだ。目的地を伝えて、目を閉じる。考えることは多い。だから、車の中で流れる景色を見るのが好きだった。そういうときもあったのだ。建造がいたころは、自分が助手席、あやめは後部座席が定位置だった。あやめは、子供の頃から建造に懐かなかった。父親らしいところもなかったが、それでも、同じ屋根の下に違う空間が用意されていて、お互いが見えていないように感じるぐらいだった。