Deep gash
思わず言葉が漏れた。無意識に握りつぶしそうになっていた雑誌を棚に戻すこともできずに買うと、祐介は記憶を頼りに走り出した。駅の名前も、ロッカーに続く地下の階段も知っているし、何も焦ることはないはずなのに、祐介は財布の中身を確認して、タクシーを呼び止めた。今さら、後戻りはできない。駅前でタクシーから降りると、片側三車線の大きな道路を渡って、地下へ続く階段を駆け下りた。
『撤去予定』
そう書かれた古いロッカーが見えて、祐介は転びそうになりながら足を止めた。受け渡し場所だ。がらんとした空間。自分が降りてきたのと逆側はスロープになっていて、エレベーターはベニヤ板で塞がれている。容赦のない『工事中、ご迷惑をおかけします』の文字。それが迷惑になるのかも分からなかった。隠れる場所がどこにもないことに気づいた祐介は、一度反対側から出ようとしたが、防犯カメラが入口にあることに気づいて、足を止めた。背後で足音がこつんと鳴り、祐介は鞄から拳銃を抜くと、振り向きざまに構えた。
ベージュのチェスターコート。今朝、この手で殺したはずだ。そう思った祐介は、すぐに春美ではないことに気づいた。でも、まるで母親の生き写しだ。
「あやめ」
名前を呼ばれて少しだけ目を伏せたあやめは、祐介の構える拳銃の銃口を掴むと、そのまま自分の頭にくっつけて、目を閉じた。
「ご迷惑をおかけしました」
「……、どういうこと? ちょっと、危ないって」
「この場所を指定したのは、わたしなんです。あのカメラは動いてませんから、安心してください」
祐介は言った。
「あの、ハマチってのは……」
「お母さんがずっと使ってきた名前やけど、あれはわたしなんです」
あやめは目を開けると、コートのポケットから折り畳みナイフを取り出して、刃を開いた。
「ここに、三人目が来ます。自分で殺すつもりです。見ててもらって構いませんから、終わったらわたしを殺してください。本当に迷惑ばかりで、ごめんなさい。でも、どうしても自分では死なれへんかったんです」
祐介は、杏奈の顔を思い出していた。頭の中でずっと巡っていた言葉。あれはひどい『事故』だった。ただ、鉄の塊が止まりきれずに、杏奈を轢いた。あの日以来、夜中に窓から顔を出して、杏奈の好きだった音楽を聴きながら、映画館のある方向をずっと見ていた。それだけで、事実からは目を逸らせていた。今はもう、逃げ隠れするつもりはない。
横井家の生き方そのものが、杏奈を殺したのだ。祐介は、銃口を下げた。
「俺も、お母さん撃ってしもたわ」
あやめは、頬をつねられたように瞬きした。
「そうですか。なら、わたしはお母さんの仕事を継ぎます。バイオリンは続けますけど、学校はやめます」
祐介はその切り替えの早さと、容赦のない行動力に、笑った。
「俺も居酒屋は継ぐと思うけど。それとこれとは、違うんちゃうの」
通路に響く口笛の音。あやめは祐介の肩を持って、庇うように脇へどかせた。スーツ姿のサラリーマンがふらりと通路に入って、ビジネスバッグをぶらぶらと振りながら歩いてきた。一日に何百人とすれ違うような風体。おそらく、すれ違ったが最後、顔なんて覚えていられない。祐介は、その男が面倒そうにロッカーを見回し、ポケットから鍵を取り出したことに気づいた。銃口を持ち上げようとしたが、あやめは止めて、小声で言った。
「そんな簡単に殺したら、あかんのです」
上田は、頭蓋骨の絵が描かれたTシャツにパーカーを着た男と、チェスターコートを羽織った女が自分を見ていることに気づいて、手で追い払った。
「時代は、プライバシーやで」
鍵の番号に合うロッカーを見つけた上田はドアを開いて、中に何も入っていないことに気づくと、目を丸くした。
「は?」
「何も入れてません」
あやめが言い、上田は大げさに飛びのいた。その右手に握られたナイフを見て、後ずさった。
「ちょっと待って、待って待って。え、誰?」
拍子抜けするぐらいに、普通の人間だった。あやめは動悸を抑えるように意識しながら、深呼吸をした。
「あなたに仕事を依頼したのは、わたしです」
あやめが言うと、上田は助けを求めるように、祐介に顔を向けた。
電流が走ったように、祐介の首の後ろが疼いた。その痛みは、そのまま自分の腕の中で力をなくした杏奈の記憶を呼び覚ました。祐介は、斜めに停められたセレナを思い出していた。背もたれを倒して、ダッシュボードに足を乗せていた男。
「偉そうにしとんなボケが」
そう言って拳銃のグリップに力を込めたとき、上田はビジネスバッグを慌てて指差した。
「若すぎんか自分ら。学生やろ? ちょっと待ってや、財布に三万ぐらいあるから」
上田は財布を取り出すと、祐介の足元に投げた。あやめは言った。
「強盗やないんです。まだ、分かりませんか」
上田が首をかしげたとき、頭上で何かぶつかるような大きな音が鳴った。三人は同じように首をすくめると、地下道の天井を見上げた。地上でガラガラと引きずるような音が続き、もう一度衝撃音が鳴った。
「地震?」
上田はそう言ったとき、携帯電話が震えていることに気づいて、胸の中に手を伸ばした。祐介は銃口を咄嗟に持ち上げて、引き金を引いた。スーツのジャケットがはじけたように裂けて、上田はその場に片膝をついた。空いた手がビジネスバッグの中に伸び、祐介はまだ何か差し出すつもりなのかと勘違いして、思わず足元の財布に視線を落とした。視線を上げたときには目の前に銃口があり、上田が拳銃の引き金を引く直前に、あやめが脇腹へナイフを突き刺した。銃口が逸れて拳銃が手元から離れ、床に転がった。
「息、合いすぎやろ……」
横倒しになった上田はそう呟くと、胸ポケットから携帯電話を取り出した。弾を受けたスピーカーの部分に穴が空いていて自分の血で光り、画面の半分が割れていた。上田は、通話ボタンを押した。
「由紀」
相手の声は雑音だけで、何も聞こえなかった。上田は言った。
「ごめん、聞こえへんわ」
雑音は加速したが、もう何も聞き取れなかった。もう少し大きな声でと言っても、無駄だろう。あの少しだけ掠れたハスキーな声を聞きたくなった。冗談ばかりでたまに皮肉屋だが、いつだってその声は優しかった。結婚を考えていたし、できると思っていたのだ。でも、最後までどうしてもやってくれなかったことが一つあった。
「次は、おれからかけるから……」
そう言ってスマートフォンを床に落とした上田は、頭を床につけて目を閉じた。
祐介は我に返ったように小さく息をつくと、あやめに言った。
「死んだ」
あやめはうなずいた。その場に固まったように動かない姿を見て、祐介は言った。
「行こう。警察来るで」
「わたしは捕まっても構いませんから、逃げてください」
「今さら何をゆうてんねん」