Deep gash
春美はうなずき、倉庫の影に屈みこんだまま息を潜めた。順は窓を少しだけ開き、中の様子を伺った。ポータブルのブラウン管テレビが光っている。その後ろに、影になっていて全身は見えないが、誰かが座っているのが見えた。咳払いの音が聞こえ、それは明らかに外からのものだった。春美の読みでは、一人が休んで、二人が見張るシフト制にしている。順は外周をぐるりと歩き、パイプ椅子に座って尾根を見つめているホスト風の若い男に近寄った。
高山は自分の真横に影が近づいてきたとき、前園と勘違いして、追い払うように煙草の煙を吐き出した。その煙を裂くように飛んできた右フックが高山の左目に直撃し、眼窩と頬骨が一度に折れて高山は椅子から転げ落ちた。声を上げるよりも早く、無事な顔の右側に足が飛んできて、顎の関節に命中した。次の一発がこめかみの真下にめり込み、両目が一度に見えなくなった。電気が消えた部屋に閉じ込められたように高山が錯覚した瞬間、最後に飛んできた蹴りが完全にスイッチを落とし、高山は死んだ。順は握り締めた右手を一度開くと、ドアを蹴り開けた。テレビを見ていた前園が椅子から転げ落ちて、足に絡まった椅子を蹴飛ばしながら立ち上がった。その椅子を慌てて引き寄せて両手で掴んだ前園は、振りかぶって投げようとしたが、がら空きになったところへ順が間合いを詰めて、腹にボディブローを打ち込んだ。ワイヤーたわしのような頭を掴んで壁に投げつけ、顔を上げたところに膝蹴りを入れた。春美が入ってきて、言った。
「順ちゃん、ちょっと待って!」
順は精密機械のように、ぴたりと動きを止めた。春美は言った。
「三人目の情報を教えて」
前園は折れた歯を吐き出しながら、春美を見上げた。
「……、ハマチ?」
春美はうなずいた。順が笑った。
「そんな名前でやっとったんか」
春美は一瞬だけ順のほうを見たが、また前園に向き直った。前園はポケットから連絡用のスマートフォンを取り出すと、順に手渡した。顔をしかめながら血を地面に吐くと、言った。
「あいつは、狂ってる」
そして、上田のことを話し始めた。春美はその全てを記憶しながら、話の途中に出た『殺人ゲーム』のくだりを聞いて隣の部屋を覗きこみ、悲鳴を上げて尻餅をついた。前園は順の顔を見上げながら、言った。
「止められんで、すまん。あの子を轢いたんも、上田や」
「他に聞いとくことはあるか?」
前園は首を横に振った。その目を見た順は、前園の語った全てを信じた。
「信じるわ」
裸電球に照らされ、逆光で影絵のようになった順のシルエット。その右手が体に引き寄せられ、拳が固められた。そこに、怒りを通り越した父親の姿を見て取った前園は、最初の一発で完全に左目を失明する直前まで、目を逸らさなかった。二発目が鼻を折り、三発目が頬骨と顎を粉々に砕いた。四発目が一度折れた左目の眼窩をさらに奥へめり込ませ、頭の骨が割れた。五発目を振りかぶった順は、その手を止めた。前園はその場に崩れて死んだ。振り向くと、春美はドアの前に立ちふさがった。
「順ちゃん、見んほうがええ」
春美は止めようとしたが、順は全く意に介さず中に入り、部屋の隅にうずくまる野市の側に屈み込んだ。手足を縛っている紐をほどいて、言った。
「野市さん、大丈夫か?」
目は開いていて壁の方向を見ていたが、順とは中々目を合わせようとしなかった。
「横井順や。覚えてるか? 家庭教師に来てくれてたやろ」
家庭教師という言葉で、野市は一度忙しなく瞬きをした。順の顔を見上げると、喉の奥が小さく鳴った。
「お……、お父さん……」
「そうや、薄味をマスターした俺やで。ほら、帰ろや」
順が言うと、野市が順の手を振りほどいて頭を抱えた。
「殺してください」
順は助けを求めるように部屋を見回した。折り重なるように死んでいる楢崎と桃子が視界に入り、目を逸らせた。野市は言った。
「お願いです、私も殺してください。杏奈ちゃんを見殺しにしてしまったんです」
順は首を横に振って、言った。
「あの子の最後の記憶は、野市さんのお陰で楽しい思い出になったんや。好きな映画、一緒に観たんやろ? それでええやんか。ほら、こんなとこおってもしゃあないぞ」
竹を割ったように単純明快な理屈。春美はその様子を後ろで見ながら思った。その芯は、昔から変わっていなかった。
順は野市を抱えるように連れ出し、カローラランクスの助手席に乗せた。運転席には春美が座り、スカイラインで病院まで先導する間、考えていた。自分が手を下さなかっただけで、犯罪現場がこれほど恐ろしいものに変わるとは、思っていなかった。楢崎と桃子の遺体も引き取りたかったが、一度には無理な相談だった。緊急外来にカローラランクスを停め、春美が小走りにスカイラインに戻ってくると、助手席に座った。野市が外来に入っていくのを確認して、順は小さく息をついた。
「堅気にめちゃくちゃしよって。ちょっとひと息つくか」
順は、無言で店までスカイラインを走らせた。近くの駐車場に停めて店の前まで歩いたところで、春美が言った。
「祐介は?」
「もう帰っとるわ」
シャッターを半分だけ開けて中に入った順は、焼酎のボトルを棚から出して春美にラベルを見せた。
「順ちゃん、それ好きやね」
「今日は飲まな、やってられんぞ。なんか作るか」
順は焼酎をグラスになみなみと注ぎ、ほとんど一口で飲み干した。
「それ、グラスの意味ないで」
春美が笑うと、順もつられて笑った。
「飲む前にゆうてくれや」
厨房の電気をつけて、残っている食材から適当なものを探した。自分で厨房に一人で立つのは、久々だった。新鮮なしめ鯖が冷蔵庫の中に残っていて、順はそれをまな板の上に置いた。手が覚えているように、一本だけ包丁の抜けた位置を探り、思い出したように順は言った。
「すまん、あの包丁返してくれ」
春美はその手に持った刺身包丁で、順の脇腹を刺した。一刺しでほとんど柄の近くまで滑り込み、春美はぼろぼろと涙を零しながら言った。
「ごめんな、順ちゃん。堪忍して。私にはどうしてもでけへんねん」
順は自分の腹から突き立った包丁を見ながら、呆れたようにその場に座り込んで、呟いた。
「そうか……」
「祐介と荘介には、絶対に手は出させへんから。お願い、堪忍して」
八年前、自分も一度諦めたのだ。それこそ、あやめと同じように。目の前で真っ赤に燃え上がるアリストを見ながら思った。順と自分は、まるで夫婦のようだと。真っ黒に塗りつぶされた星空が次第に姿を現し、気づくと順に体を支えられていた。すぐに自分で冗談めかしたが、あの瞬間だけが、写真に収めた花火のように記憶に残っている。
「新しい約束や……、守ってくれるな」
順は、前園の携帯電話を差し出して、言った。祐介と荘介、そしてあやめも、今ここで切り離す。春美は携帯電話を受け取って、うなずいた。しばらくの沈黙が流れた後、順は呆れたように笑った。
「はよ行け」
一人になった厨房で、注文を控えるための用紙を手に取った順は、ペンを抜いた。血が容赦なく流れ出し、意識が一瞬薄れかけたが、自分にできることは限られていた。歯がしなるぐらいに食いしばり、全身の力を右手に込めて、書いた。