Deep gash
あやめはコートをハンガーにかけ、冷蔵庫からぶどうジュースを取り出してストローを刺した。春美は、テーブルに置いたノートパソコンを起動しているところだった。あやめはスマートフォンを片手に、居間のソファに腰を下ろした。テレビからは、炎上して丸焦げになった二台の車のニュース。あやめは音量を上げた。助手席から見つかった焼死体の男性。警察は、身元の確認を急いでいる。
荘介に顔を隠すようお願いして、言いかけたこと。好きなのは本心だったが、あの時言おうとしたことは、違った。人は、心が永遠に元に戻らなくなったように感じても、それを新しい普通として受け入れることができる。それを伝えたかった。台所から漂ってくる、むせ返るようなコーヒーの香り。昔はそれが好きだった。三年前、焼肉会が終わった後、あやめは自分が頬を染めたまま春美に言った言葉を、今でも一字一句覚えている。『わたし、あの次男の子が好きかもしれん』。今思えば、十四歳だった自分には、どんな反応が返ってくるかなんて考える余裕は全くなかった。だから、衝撃は最大限だった。
『あの家の人間とは、付き合ったらあかんよ』
あれだけ仲良く話していた相手は、『横井家』ではなく、『あの家』だった。あやめはすぐに自分の父親のことを思った。
あなたはあれと付き合って、わたしを生んだ。
機械のように正確無比な言葉が頭にとりついて、離れなくなった。一週間後に演奏会を控えていたあやめは、その日の夜に家中の薬瓶を集めて、睡眠薬を一気に飲み込んだ。ついさっき、荘介に言おうとしたこと。
『その日の晩に、付き合われへんって分かって、死のうとしたんです』
胃の中が泡立って、全身に寒気がしても、声を上げることはなかった。夜中にトイレに立った春美が偶然見つけて、救急車を呼んだ。あと少し遅ければ、命を落としていた。
でも、言わずにおいて正解だった。あやめはそう思って、唇を強く噛んだ。好意は嬉しいが、同情はしてほしくない。
春美は、居間でくつろぐあやめから見えないようにノートパソコンの位置をずらせると、掲示板の書き込みをチェックした。新しく作ったスレッドにマークがついており、それは前園が書き込んだことを意味する。それを開くと、絵文字の一切ない簡素な文字が打ち込まれていた。
『まだ途中なんですが、並行して取りかかった方がいいですか?』
春美は、画面を見たまましばらく固まっていた。指に入った力を一度抜いてから、返信を打った。
『何の途中?』
すぐに書き込みが増えた。前園は今、この画面を見ている。
『いや、結構ニュースなってますよ。杏奈はすんませんでした。上田のアホが轢きよってからに』
動悸が急激に速度を増して、それは頭痛のように目の奥にまで響いた。春美は返信を送った。
『誰からの依頼?』
『いや、ハマチさんからですよ』
パソコンが怪物に変わってしまったように、春美は台所の椅子から飛びのいて立ち上がった。前園の書き込みが、さらに続いた。
『ちょっと、しっかりしてくださいや。ここでやってます』
リンクが添付されていて、当然自分にも公開されていた。それどころか、それは明らかに自分が作ったスレッドだった。先頭にピン留めされた文章を読もうとした春美は、自分の息で画面が白く曇っていることに気づいて、袖で画面を拭った。
『Y◎1・野市美知子、Y◎2・横井杏奈、×3・横井順、×4・横井衛、×5・楢崎桃子』
書き方まで、完全に一致している。『Y』は誘拐。◎は無傷。×は殺し。
春美が返信しようとしたとき、新しい書き込みが追加された。参加者は『もじゃ山もじゃ男』と『リベット三〇』、そして見たことのない『マソソソマソソソ』という三人だったが、そこに『ツバス』という名前のアカウントが割り込んで、発言していた。
『もじゃ山さん、あんまぺらぺらしゃべったらあかんのです』
春美は思わず振り返った。すぐ後ろに、スマートフォンを持ったあやめが立っていた。
「中止にしたいから、パソコン貸して」
春美は呆気に取られて、口をぽかんと開いたまま瞬きを繰り返した。自分の名前を騙って誘拐のスレッドを作ったのが、あやめ?
「あやめ、どういうことなん?」
「もう思い残すことないから、いいです。お互い好きやって分かったんで」
あやめは、『中止』と打った。送信しようとしたところで春美が咄嗟に手を掴んで止め、平手打ちを放った。甲高い音が鳴り、春美は息の合間に搾り出すように言った。
「あんた……、なんてことをしたん」
あやめは頬を押さえることもなく、まっすぐ春美の顔を見据えた。春美の視界の隅に映るノートパソコンの画面上で、最新の書き込みが取り残されていた。
『ツバスって誰?』
春美は心の中で呟いた。今、目の前にいる。あやめは口角を上げて、次第に笑顔になった。
「わたしは一回、死んでるんやで。平手打ちなんかでどうにかなると思うん」
床に散らばった薬瓶。救急車のサイレンと、全身から色が抜け落ちたようになった、十四歳のあやめ。春美は言った。
「それとこれと、何の関係があるんな」
「あるよ。なんで、付き合うなって言うたん?」
あやめの目の奥から凄まじい怒りが溢れているのを見て、春美はノートパソコンを守るように引き寄せた。
「荘介くんのことが好きやったんは、よう分かってた。でも、あの家は特別なんよ」
あやめは肺に残った最後の空気を吐き出すように、笑った。
「お母さんは、そんな風に諦めてお父さんと知り合ったん? むしろ逆なんやないの?」
春美は歯を食いしばった。もちろん、形式上は親と呼ばれる人間から、反対はされた。しかし、それ以前に自分の子供時代はめちゃくちゃだったのだ。それは私立の高校ではなく、オーケストラ部でもなく、そもそも学校ですらなかった。自分があやめと同じ年だった頃、目の前にあったのは、ただ永遠に続くような、見上げても何もない空だった。
あやめはスマートフォンの画面に視線を落とすと、言った。
「誰もおらんくなったら、付き合えるやんか。お母さんもわたしも、何も違わんのやから」
春美は、ノートパソコンから返信を打った
『ツバスは次の仕事で使おうと思ってる。忙しくてごっちゃになったわ、ごめんな』
それを送ると、あやめは笑った。
「お母さん、言い訳上手すぎるわ」
「杏奈ちゃんは、あんたのわがままに巻き込まれて死んだんやで」
春美が言うと、あやめは口をつぐんだ。春美は、高速道路を走る車の中で杏奈の死を聞かせたときに、あやめが呼吸できなくなったことを思い出していた。あやめは、いつから闇サイトのルールを理解していたのだろうか。杏奈を無傷で確保するよう、厳密に指定していた。リストの中では、八年前に協定を結び、共犯関係になった大人だけが標的になっていた。春美は続けた。
「野市さんを餌にして、前園を雇って。杏奈ちゃんも誘拐されたら、横井家が動くと思ったんやな。でも、結果的に杏奈ちゃんが一番目に殺された」