Deep gash
「あの天パは真面目すぎんねん。そう思わんか? 誰が死んだかて一緒やんな? このカッパハゲに比べて、君になんの値打ちがあんねん? 女の子を巻き添え食わせてもたのは、ほんまに申し訳なかったと思ってる。そこは同じやで。あの天パのボケが車ケチりよったから、全然ブレーキが利かんかった。ほんまは、あの子も無傷でここに連れてこなあかんかったんや。それができんかった時点で、もう失敗やねん」
桃子が目を大きく見開いた。楢崎ですら、耳を澄ませたのが分かった。コートを脱いで壁にかけていた高山が振り返り、言った。
「お前、言い過ぎやって」
上田は高山の目をじっと見据えた。桃子が呟いた。
「杏奈も、誘拐することになってたん?」
高山が言い澱んでいると、代わりに上田がうなずいた。前園が戻ってくると、気まずいようにきょろきょろとあたりを見回した。その様子に、前園は顔をしかめて言った。
「なんやねん」
「なんでもないっす」
上田がそう言って、桃子のほうを向いた。
「お口にチャックやで」
高山も暴力の矛先が自分に向くのではないかという不安から、前園から目を逸らせた。野市が言った。
「私と杏奈ちゃんを誘拐して、どうするつもりやったんですか」
上田は突然、楢崎の腹を力いっぱい蹴り上げた。野市と桃子が縛られたまま後ずさると、苛つきを隠せないように言った。
「お口にチャックゆうたやろが。もうええわ、ありがとうございました!」
お笑い芸人が締めるように言うと、バットを投げ捨てて代わりにナイフを手に取り、桃子の顔に振り下ろした。刃が頬を貫通し、二発目が首に吸い込まれた。三発目で返り血が手にかかり、四発目が繰り出される前に桃子が血の海に倒れこんで、そのまま動かなくなった。上田は腕時計に視線を落とし、血まみれになった盤面を拭った。午前四時。月曜は一日休みにする。そう決めて楢崎の上に馬乗りになると、その顔にダンボールを留めるテープを切るように刃を走らせた。前園と高山が目を逸らせる間、野市は悲鳴を上げ続けた。
昼前、あやめが図書館の周りで所在なさげに周りを見回すのを見つけて、荘介は言った。
「ごめん、遅くなって。居心地悪かった?」
「いえ、そんなことないんですけど。初めて来たので」
荘介が来ると、突然周りを歩く女子大生の視線が自分に突き刺さり始めて、あやめは荘介の影になるように少し立ち位置をずらせた。
「みんな、見ますね」
「そう? 入ろか」
あやめは荘介の体に隠れるように図書館に入り、ちらりと視線を上げただけで気にもかけない係員をやり過ごして、視聴覚室に入った。静かで、ブースも空いていた。端のほうのブースで数組が映画を観ていることに気づいて、あやめは言った。
「ああやって、観るんですか?」
「そうやね、その辺は自由やけど。せっかくやし、選んでよ」
あやめが適当にDVDを選ぶと、荘介は真ん中のブースに入って、ロッキンチェアーのように深い椅子に座った。全部で四つあり、各々少しだけ距離があった。あやめはDVDをセットすると、荘介の隣の椅子に腰掛けた。
「背もたれ使わな、腰壊すよ」
椅子の上で背筋を伸ばしているあやめは、荘介に言われるままに、おずおずと背もたれに体を預けた。映画が始まって音声が流れ出してからも、あやめは荘介の方を向いたまま黙っていた。荘介は同じようにあやめの顔を見ていたが、映画がこの場にいる第三者であるかのように、一度テレビの画面をちらりと見てから、言った。
「こそこそすんのは、やめにしよ」
「はい。でも今、割とこそこそしてる気がします」
あやめが言い、荘介は笑った。
「ほんまやね。おれな、あやめさんとは会ったらあかんて、親父から言われててん」
「うちもでした」
お互い過去形になっていることに気づいて、荘介とあやめはふと黙り込んだ。二人が黙っても、映画の中で誰かが話して、その間を取り次いでくれる。あやめは映画の中の会話が静かになったのを見計らうように、言った。
「なんでやと、思いますか? お互い事情はあると思うんですけど」
「うちはな、よう分からんねん。ガラの悪い親戚の話、したやろ?」
荘介が言うと、あやめはうなずいた。
「カッパさん……、でしたっけ?」
「ああ、楢崎さんな。親父の妹の旦那やわ。杏奈が死んだ夜もな」
その言葉に、あやめは冷たい床に触れてしまったように、足を引いた。恥ずかしそうに俯くと、靴を脱いで完全に椅子の上に足を乗せた。
「親父と祐介は、警察に誘拐の話をしよらんかった。やから、今でもニュースになってない。のいちんが行方不明になったんは、まだ誰も知らんのやで。ひとり暮らしやったみたいやけど、いくら週末やからって、おかしないか?」
「祐介さんも、お父さんと何か申し合わせてるんですかね」
あやめは言った。荘介は首をかしげた。
「分からん。兄貴は兄貴やから。音楽の話ばっかで、仕事もしとらんし。あやめさんのとこは、変なことないの?」
「うちは、昔から変でした」
あやめは淡々と言った。
「父親はヤクザ? やったみたいで、わたしはずっと苦手やったんです。小学生のときに抗争に巻き込まれて、殺されました。家に全然帰ってこんで、まともな思い出なんかないんですけど。でも、お母さんも元からそんな人おらんかったみたいに、普通やったんです」
「あやめさんが小三ってことは、八年前か。そのころやな、うちと交流が始まったんは。うちのおかんも、その頃にふらっとおらんようになった」
荘介が言うと、あやめは映画の話し声が邪魔なように、少し目を伏せた。
「蒸発ですか?」
「知らんねんけど、祐介が『おかん出て行きよった』ゆうて、そない考えたらうちも変やな。なんか元からおらんかったみたいに、普通やった」
「お母さんおらんようになって、寂しくなかったですか?」
「杏奈は可愛がってたけどな。おれと祐介は、親父によう似すぎてるんかして、そない構われた記憶がないねん」
荘介は一気に言って、あやめの目を見た。
「杏奈が死んで、家族は終わったと思った。でも、家族のまんまやねん、不思議と。親父はもう店開けるゆうとるし。祐介も、朝からメシ作っとった。おれだけやねん、中々元に戻られへんのは」
あやめは、『荘介くんは、違いますから』と言いかけて、それが言葉になる一瞬手前で飲み込んだ。それが本音だし、実際に違うと思う。色々なことが起きている中で、確信は日々強くなっていった。
「元に戻らんでも、これが新しい普通やって、言い切ったらいいんやと思います」
あやめはそう言うと、小さく咳払いをした。
「言いにくいことを言うんで、顔を隠してもらえますか」
「え? どうやって?」
荘介はあやめに手を伸ばして、顔の前に手の平をかざした。
「わたしの顔やなくて、荘介くんが自分で顔を隠してほしいんです」
荘介が言われた通りに自分の顔を覆うと、あやめは言った。
「三年前に初めて会って話した後、その日の晩に……」
しばらく沈黙が流れて、あやめは映画の会話が割り込んでくれるのを待ったが、海の音だけで、誰も割り込んでこなかった。今この空気を動かすのは、自分の声だけだ。そう覚悟を決めたとき、荘介が顔を隠すのをやめて、言った。