Deep gash
半分以下の大きさになった助手席に挟まれて、足元に血だまりができていた。前園は懐中電灯で全体を照らした。レッグスペースの形に圧縮された足があちこち裂けて、中途半端に捌いた魚の腹のように血で光っていた。ガラスに首から先が突っ込まれたままだったが、前園が力を込めて引っ張ると、血まみれの頭が戻ってきた。左の眼球がなくなっていて、頭の形がいびつにへこんでいた。
「確保」
そう言ったとき、衛の右腕が突然力を取り戻し、前園の首に喰らいついた。衛の右目が大きく開き、右手が一気に前園の首を締め上げた。前園はその手を振りほどこうと両手で掴んだが、万力のように頑強な右手はびくともしなかった。次に衛の顔を掴もうとしたが、大柄な衛の腕ははるかにリーチが長く、手は届かなかった。上田は、前園が運転席に半分体を突っ込んだまま不安定な体勢になっていることに気づいて、懐中電灯で照らした。唯一生きている右目と、右腕。それに絡め取られた前園。上田は、運転席の足元に落ちている拳銃に気づいて、拾った。
「これ、本物?」
意識を失いかけている前園の後頭部を銃口で突きながら、上田は言った。衛の右目が前園から逸れたとき、銃身線越しに目が合った。
「はいはい、強い強い」
上田は衛の顔に銃口を向けて、引き金を引いた。火花のような薄いオレンジ色の炎が銃口から噴出し、耳が一瞬聞こえなくなった。前園が運転席から這うように降りてきて、上田は目を忙しなく瞬きさせながら、衛に目を凝らせた。右目に穴が空いて、右手はだらりと垂れ下がっていた。
「便利グッズやな」
上田は拳銃を手に持ったまま、前園に言った。
「いけます?」
前園はかろうじて首を縦に振った。しばらく無言の状態が続き、顎の調子を確かめるように呟いた。
「口がちゃんと開かん」
アテンザの運転席に座った高山がクラクションを鳴らし、窓から顔を出した。前園と上田は、開いたトランクの中に二人がかりで楢崎を放り込んで、上田が灯油の缶を取り出した。キャラバンの車内に灯油を撒き、前園が桃子を後部座席に乗せた。上田は布切れにライターで火をつけ、車内に放った。
走り出してからも、炎に包まれる二台の車がバックミラーにずっと映り続け、高山はミラーの位置を少しずらせた。
桃子は、湯につけられたように火照る顔の熱で、目を覚ました。顔のあちこちの骨が、内側から突き破ろうとしているように腫れ上がっていて、かろうじて開いた目で、周りを見回した。野市美知子は、部屋の逆側に向かい合わせになって座っていた。自分と同じように手足を縛られているが、猿ぐつわなどはなく、自由に話せる状態になっていた。野市は前園と上田を代わる代わる見ながら、呟いた。
「この人たちは……?」
前園は顎を押さえたまま黙っていたが、上田が言った。
「気になる?」
野市はその問いにどう答えれば正解なのか分からない様子で、楢崎に視線を向けた。桃子はすぐ隣に気を失った楢崎が倒れていることに気づいて、篭った悲鳴を上げた。上田はうんざりしたように、野市に言った。
「よし、野市さん。決めていいわ。猿ぐつわを外してもええと思う?」
野市は強くうなずいた。上田は桃子の頭を引っ張り、結び目をほどいた。桃子は楢崎に向かって叫んだ。
「ハチ!?」
「犬かい。大声出すな」
「あんた、絶対殺されるから、覚悟しときや」
桃子は噛み付くように言った。上田は口笛を吹き、野市のほうを向いた。
「これ、外したらあかんかったんちゃうか?」
テーブルの上に置いたナイフを手にとって野市に向かって振りかぶったとき、前園がその腕を掴んだ。
「やめんかこら。手出したら終わるぞ」
上田は前園の手を振りほどくと、しばらく考え込んでいたが、突然思いついたように言った。
「ほな、ルール変えよか。自分ら、芸者と遊んだことある? 中学生ぐらいの女の子が出てきて、お酌しよるんやけどな。あっちむいてホイをやって、負けたほうが一気飲みすんねん。ただ、勝っても負けても、結局こっちが一気飲みせなあかん。そらそうやわな。相手は未成年やから」
上田は一気に言い切ると、前園の方を向いた。
「趣旨、分かりました?」
「お前は、狂っとる」
前園を突き飛ばすように脇へどけると、上田はナイフをテーブルに置いて、バットを手に持った。
「狂ってたら、なんか悪いんすか。はい、猿ぐつわを外してはいけませんでした。野市さんの負けです」
上田はバットを振りかぶり、楢崎の足首に振り下ろした。くるぶしの骨が折れて、楢崎が体を跳ねさせながら目を覚まして悲鳴を上げた。上田はテーブルに置いた桃子の財布を開いて、免許証を眺めながら言った
「ほな、桃子さん。ハチを鳴きやましてください。野市さん、十からカウントダウンして」
桃子は目の前で起きていることを感電するように受け入れ、楢崎に言った。
「ハチ、お願い。静かにして」
野市がカウントダウンする声を緩めたことに気づいた上田は、傷だらけになったバットの先端を野市の額にこつんと当てた。野市がカウントダウンを再開し、最後の『一』を読み終えた後も、楢崎は唸り続けていた。上田は言った。
「はい、桃子さんはハチを静かにできませんでした。桃子さんの負けです」
上田は楢崎の右膝にバットを振り下ろした。皿の周りの軟骨が裂け、コンクリートの床を打ったような甲高い音が鳴った。高山が真っ青な顔で見つめていることに気づいた上田は、言った。
「五回で交代しよや。あー、仕事どないしよ。半休いこかな」
「ぼ、ぼちぼち店開けな……やばいし……」
高山は楢崎を視界に入れないよう、くちゃくちゃに丸めたコートを掴みながら言った。
「交代やろ? 俺が休みの番ちゃうの?」
「おれ、サラリーマンやから平日はあかんねんけど」
上田はそう言ってから突然、野市のほうを向いた。
「あ、今の聞いたらあかんやつやで。聞いた?」
野市は髪を振り乱しながら首を横に振った。楢崎は無事な左足で、使い物にならなくなった体の右側を庇うように、体を丸めていた。上田は桃子の頭にバットを置いた。
「桃ちゃんは?」
桃子は諦めたように目を閉じ、首を横に振った。上田は前園に言った。
「代わり頼めます? 一日休むのはちょっときついんすけど」
野市は、前園の顔をじっと見つめた。全員が狂っているが、前園だけはまだ常識が通用しそうな気がした。前園は苦々しげに言った。
「遊んどる場合ちゃうぞ。元々の仕事があるやろうが。こいつらはオマケや」
上田は歯をむき出しにして笑うと、桃子の頭からひょいとバットをどけた。
「おれは、そうは思いませんでしたけどね」
前園は、高山のほうを向いた。
「セレナをやってもうたから、車が一台しかない。お前が帰ったら、俺らも帰られへんようになる」
「野市のカローラ……」
高山が言いかけるのを、前園は遮った。
「あほ、そんなんで移動できるかい。今はここにおれよ」
前園はそう言うと、倉庫の外に出て空気を肺一杯に吸い込んだ。上田は出口のドアが風で閉まったのを確認すると、野市の頭をぐしゃぐしゃに撫でた。