Deep gash
荘介は一度ベッドの上に寝転がると、壁にかかった時計を見た。二時半。SMSメッセージをやりとりする画面には、通話ボタンもある。今までどうして押さなかったのか。荘介は自然に手が動くままに、ボタンを押した。すぐ通話状態になり、小声を通り越して衣擦れの音に聞こえるような声が届いた。
「電話はあかんのです」
「今は、部屋?」
「はい、布団の中です。でも、ほんまに声とかめっちゃ通るから……」
「頭まで布団被ってるん?」
荘介が言うと、あやめは押し殺した声のまま器用に笑った。
「被ってます。ちょっと頭熱くなってきたから、どうにかしていいですか?」
荘介がしばらく待っていると、またあやめの声が返ってきた。
「頭におしぼり当ててるんで、しばらくは大丈夫です。また熱くなったら、言っていいですか?」
「もちろん」
そう言って、荘介は次に何を言うべきか思いつかず、一瞬会話が途絶えた。あやめは篭った咳を一度すると、言った。
「明日は、図書館で寝るんですか?」
「そやね、映画観れるコーナーあるから。占領するわ」
荘介が言うと、あやめは笑った。しばらく雑音混じりの間が空いて、荘介は言った。
「お母さんのコート、借りれる?」
「はい、頼めばいけると思います」
「大学の図書館さ、共連れでなんぼでも入れるんやけど、来る?」
しばらく沈黙が流れた後、ボリュームの絞りを忘れたような声が届いた。
「いいんですか?」
「さすがに制服やと止められるやろけど、お母さんのコートならいけるよ」
「体調不良ゆうて休んでるのに、おめかしして出かけたら、何かなりませんか」
「なんもならんわ。元気なったゆうて、昼からおいでや」
荘介が言い切ると、あやめは小さく息をついた。布団のこすれる音だけが聞こえて、再び頭を冷やしているということに荘介が気づいたとき、窓を開ける音が聞こえた。普通の音量で、あやめの声が届いた。
「もう、どうでもいいです」
「何が?」
「隠れて、声ちっちゃくして、わたしらなんも悪いことしてないのに」
確かにその通りだ。荘介は窓を少しだけ開けた。こっちに音量制限はないが、あやめが窓から顔を出して外の空気に触れているなら、同じようにしておきたかった。冷たい風が吹き込んできたとき、荘介はふと思い出した。
「昔話、していい?」
「はい」
「三年前な、演奏会の約束したん覚えてる?」
荘介が言うと、しばらく静かになった。あやめは元の小さな声に戻って、言った。
「あれね、会はあったんですけど、わたしは演奏せんかったんです」
「そうやったん」
荘介は、あやめがいない演奏会を観にいく自分を想像して、笑った。音楽にさほど興味はないが、不肖の兄が常にメタルを聴いているから、横井家は自然とクラシック音楽からほど遠い家庭になった。
「眠れますか?」
「せやな。頑張るわ。あやめさんも、頑張って寝てや」
「はい、おやすみなさい」
電話を切ってから時間差で頭に血が上り、荘介は窓を全開にした。隣の部屋の窓も開いており、だらりと腕を垂らした祐介の姿が見えた。頭にすがりつくヘッドホンから音が漏れていて、荘介は言った。
「近所迷惑やろ」
祐介はその声に気づくこともなく、町の遠くの方をじっと見つめていた。
「運転はね、あまり上手くないと思います。はい」
楢崎が言った。すでに、一時間近く尾行している。アテンザは市街地を不器用に抜けると、郊外のなだらかな山道に入った。
「慣れとらんな、わがの車ちゃうんかいな」
衛はしびれを切らせたように言い、道から見えるダムの堤体を見つめながら思った。管理所の近くは防犯カメラが多い。アテンザはその道を通るのだろうか。分岐に差し掛かったとき、ダムとは反対方向に伸びるやや細い道にアテンザが折れて、キックダウンで一気に回転数を上げた。真っ黒な車体が急加速した瞬間、楢崎はシフトノブを四速から三速へ叩き込んで同じ道に入ると、アクセルを底まで踏みこんだ。ポケットから拳銃を抜いた衛は、唸るガソリンエンジンの音にかき消されないよう大声で言った。
「あんまり揺らすなよ」
シートベルトを外し、ピラーに据えつけられたグリップを掴むと、空いた方の手で拳銃を構えた。
「う、撃つんですか?」
「いや、まだや。先に追いつけ」
桃子は、全開で唸るエンジン音を聞きながら、腰の位置に緩く巻かれたシートベルトに、一度触れた。楢崎は四速に入れるタイミングを伺いながら思った。上り坂はどうしても限界がある。相手は普通のセダンだが、こちらははるかに重い上に、馬力も足りない。チェイサーなら、簡単に追いついただろう。少し坂がなだらかになって、楢崎は四速に上げた。時速が八十キロを超え、長いブラインドコーナーが現れた。アテンザが深くロールしながら曲がり、視界から消えた。楢崎はアクセルを抜いて同じラインをなぞり、コーナーの途中に突然壁のように現れた車を見て、急ブレーキを踏んだ。
ABSのない四輪全てがロックし、車体が曲がる力を失ったように一瞬真っ直ぐに進路を変えた。センターラインを踏んだ瞬間、キャラバンの左半分が車線のど真ん中に停車したセレナの後部に突き刺さった。それまでレッグスペースになっていた車体下部がプレス機のように衛の両足を砕き、上半身がシートから飛ばされるようにフロントガラスに激突した。同時に、手から飛んだ拳銃がバックミラーを割った。桃子は腰だけに巻かれたシートベルトに引きちぎられるように体をくの字に折り、助手席のヘッドレストで鼻と左の頬骨を折った。楢崎は歪んだステアリングラックに右足を絡めとられ、右手がスピードメータのプラスチック板を貫いた。左手は急激に方向を変えて勢い良く回ったハンドルに巻き込まれて、手首が明後日の方向に折れ曲がった。セレナの後部に車体の半分近くを接合されたようになりながら、車線を全て塞いでキャラバンはようやく停まった。
道路脇から顔を出した上田は、飛び跳ねるように小躍りしながら事故現場に駆け寄った。
「おい! やばいな!」
道路に対して九十度横を向いたキャラバンに近づくと、運転席のドアを引き剥がすように開け、楢崎の頭を掴もうとして手を滑らせた。楢崎は折れた手で抵抗しようとしたが、ナイフでシートベルトを切られてそのまま車外に引きずり出された。アスファルトで頭を打った楢崎は上田の足を掴もうとしたが、手首から先は言うことを聞かず真下に垂れた。同時に後ろから現れた前園がバットで頭を殴り、楢崎はうずくまったまま気絶した。スライドドアを開いた上田は、連絡用のスマートフォンを出すと青白い画面をじっと見つめた。
「血だらけで分からん。どこのチームの帽子よ」
前園は横から画面を覗き込み、呆れたように言った。
「間違いないやろ。急げよ」
上田は腰の位置に食い込んだシートベルトをナイフで切り、桃子の頭を髪ごと引っ張った。意識が朦朧としていた桃子は一瞬目を覚ましかけたが、アスファルトの上に叩きつけられた衝撃で、完全に意識を失った。前園は楢崎の方を見ながら、言った。
「このカッパみたいな奴、誰やねん? とりあえず女の方は確保やな。もう一人は……、まあ間違いようないか」