Deep gash
突然呼ばれて、春美は肩をびくりと震わせた。覗き込むようにあやめが立っていて、手招きした。春美が輪から抜けると、あやめは言った。
「車で待っててもいい?」
春美はメルセデスのキーを渡し、あやめが立ち去ったのを見届けると、輪に戻った。順と衛。そして楢崎と桃子の夫婦。一度ギアが入ったら、誰も後戻りしようとしない。楢崎ですら、そのおどおどした様子とちぐはぐなぐらい、目に力が宿っている。春美は思った。
この空気を、体が覚えている。
ー八年前ー
夜中二時。林道でアイドリングを続ける、シルバーのスカイライン。運転席には順が座り、ハンドルを握っているとそのまま手がくっついて離れなくなるような気がして、時々手を離しては、また元の位置を掴むという動作を繰り返していた。助手席で、春美は言った。
「ほんまに、よかったんかな」
「当たり前やろが」
順は、微塵の疑いもないように言った。春美は、最後まで『建造を殺して』とだけ言っていた。衛が用意した日本刀を抱え、春美と一昨日打ち合わせをしたばかりだった。
『現場を押さえる』
そう言う順を、春美は止めた。首を横に振るだけでなく、順の着る作業服のような生地の上着を掴んで止めようとした。
『私の言う通りにして』
一度ギアが入ったら、言うことを聞かない。衛だけだと思っていたが、順も根本は同じだった。春美は、今こうして同じ車の中に座っている間も、同じことを考えていた。それは、祐介の高校が決まってからという条件を最初につけた順は、自分よりも前に気づいていたのではないかということ。
『今日、うちの事務所に寄るから』
春美はそう念押ししたが、順はそれでも言うことを聞かなかった。建造がよく立ち寄るホテルに行き、夕方に春美が待つ事務所に戻ってきた。その右手は痣だらけで、建造は顔の形が分からないぐらいに殴られていた。衛も同行しており、どこか庇うようにしながら、愛子の背中を押した。順は、両膝をつかせた建造と愛子を代わる代わる見てから、春美に言った。
『なんで言わんかったんや?』
『順ちゃん、愛子さんは堪忍したってや。ええ母親やんか』
建造の不倫相手が愛子なのは、最初から分かっていた。しかし本心から、愛子にはやり直すチャンスが必要だと思った。春美は、スカイラインのヘッドレストに頭を預けたまま、順の横顔を見た。最後の言葉も、捨て台詞もなし。順は、一太刀で愛子を斬り殺した。衛が白い息を吐きながら近づいてきて、窓を叩いた。順と春美は車から降りて、衛と一緒に坂道を降りた。河川敷に突っ込むように停められた、黒のアリスト。建造は運転席に座り、ハンドルに手首を縛られている。衛は順に発炎筒を手渡すと、坂道の始点に置かれた看板の根元に腰掛けた。春美は空を見上げた。冷え切った空気の中、かろうじて凍らずに川を流れているような微かな水の音が聞こえる中、星空が少しずつ姿を晒し、それは眩しいぐらいになった。ただ、ガソリンの匂いだけが鼻を刺した。
「やるか?」
順は、発炎筒をもてあそびながら、呟いた。春美は首を横に振った。
「私は、もう気済んだわ」
順は無言で発炎筒を擦ると、アリストの真下に投げ込んだ。ガソリンをかぶった車体が一瞬で炎に包まれ、叫び声が運転席から上がった。春美は目を逸らせた。星空が一瞬で真っ黒に塗り潰され、足元の石ころすらどこかへ行ってしまったように感じた。順に体を支えられていることに気づいたのは、叫び声が消えてからだった。
「くたばりよった」
悪意に満ちた機械のように呟く順の顔を見上げた春美は、呟いた。
「こんなんやったら、私らが夫婦みたいやんか」
順はしばらく黙っていたが、ふっと頬を緩めて、笑顔を見せた。春美は言った。
「あほ言いな」
「自分で言うたんやんけ」
真っ赤に燃え上がる炎に顔を照らされながら、順はそう言って笑った。同じ炎に照らされながら、春美も自分に呆れたように笑った。
河川敷で全焼したアリストから上がった焼死体。身元はすぐに判明した。建造が構成員の中でも下っ端だったことを、順は新聞で知った。全国ニュースになり、週の終わりには違うニュースで上書きされ、半年後に週刊誌の記事になった。一年後に、未解決事件を扱う雑誌の表紙を飾った。それが最後だった。ヤクザ者は、警察もろくに捜査しない。順が注目したのは週刊誌の記事で、鵜呑みにするなら、津田建造は上納金をごまかして個人的に手数料を回収しており、それが度を過ぎて消されたという説が書かれていた。手出ししてはいけない人間に金を貸したという説もあって、それは順を一番満足させる説であるのと同時に、これから春美とやっていけそうな仕事の基盤となった。
順は店の空っぽの金庫に、春美の免許証のコピーが入った封筒を入れた。津田家は、どんな人間でも狙う。それ自体は気に入らないが、敢えて家同士の付き合いをする。お互いの家族を人質に取っておけば、どちらかが裏切るというリスクを減らすことができる。津田家には、あやめという一人娘がいる。物静かで上品な、私立の小学校に通う三年生。こちらは、志望校に合格したばかりの祐介に、芸術肌の荘介。杏奈はどう育つのかまだ皆目分からないが、言葉を覚えるのが早くて期待している。
どちらかが裏切れば、全滅させられる前に、どうにかして相手の家族にたどり着くことができる。お互い、無傷では済まない。春美は納得しないと思ったが、あっさりと了承した。順には、勝つ算段があった。春美は色々な業者を使って仕事をこなすが、依頼して実行に移すまでに時間がかかる。こちらは『十分後に』と言えば、十分後に全員が集まる。
ー現在ー
大きな手で、弾倉に一発ずつ三二口径を装填している衛を見ながら、桃子は呟いた。
「小さい弾やなあ」
「こんなんで人が死ぬんやから、あっけないもんやで」
衛が言いながら八発目を装填したのを見届け、桃子が一段落ついたように、缶のココアを一口飲んだ。前の仕事で使ったキャラバンを引っ張り出してきたが、楢崎はその性能に不満そうだった。猫背で瞬きを繰り返しながら、今はフロントタイヤの空気圧を確認している。
「前は運ぶだけやったけど、今回は何があるか分からんから」
そう桃子に言うと、リアタイヤの前に屈みこんで、バルブキャップを外して空気圧チェッカーを差し込んだ。巨大なタイヤが六輪あるトラックに比べれば、なんてことはない。後ろの空気圧が若干高めに設定されていることを確認した楢崎は腰を庇いながら立ち上がり、衛に言った。
「大丈夫です」
「サンキュー」