Deep gash
「えー、終わり?」
大川は残念そうに言い、あやめの返事を待つことなく、熱を冷ますようにペットボトルのお茶を頬に当てて微笑んだ。
帰りはバス組と、親の車で帰る組に分かれる。行きだけバスを使ったあやめは、大川と一緒に駐車場まで歩いた。琴森が巨大なコントラバスをレンジローバーの荷室に積み込み、振り返ると手を振った。大川とあやめが手を振り返すと、春美のメルセデスがすぐ後ろに停まり、あやめは後部座席にバイオリンケースを置いた。
「じゃ、またね」
大川は運転席の春美にぺこりと頭を下げ、あやめを見送った。助手席でシートベルトを締めて、あやめは窓越しに手を振った。高速道路に合流するところで、春美が言った。
「見事やったわ」
「ありがとう。でも、お母さん真顔やったよ。いつも笑ったりするのに」
「そうかな」
春美はそう言ったが、合流のときにアクセルを踏み込む足を滑らせて、凄まじい馬力が後輪に一瞬伝わった。あやめは思わずドアを掴むと、春美に言った。
「大丈夫?」
「うん、ごめんな」
春美はかろうじて呟き、流れに乗ったところで大きく深呼吸した。
「あやめ、横井さんとこのな」
あやめが瞬きを止め、春美の横顔を刺すように見つめた。春美は一瞬目を合わせると、前に向き直った。雨がちらついている。雨の音であっても、今は少しでも気を逸らせてくれるのが有難いと思った。
「杏奈ちゃんが轢き逃げにあって、亡くなったんよ。急やけど、今からお通夜にいかなあかんねん」
あやめが息を呑んだのが分かった。春美はワイパーを回して、オレンジ色に光る高速道路に目を凝らせた。いずれは言わなければならないのだ。
「あやめ?」
春美は助手席のほうを向いて、あやめが胸を押さえて俯いていることに気づいた。肩が上下し、髪が前に垂れて、あやめは何かを吐き出そうとしているように体を折った。
「お母さん……、息が……、できん」
かろうじて絞り出した声を聞いて、春美は路側帯にメルセデスを寄せた。あやめはシートベルトを引きちぎるように外すと、外に飛び出してうずくまった。春美は慌てて自分も外に出ると、反対側に回ってあやめの背中をさすった。雨が体を隙間なく濡らすまで、あやめはアスファルトを見つめ続けた。
春美はようやく落ち着いたあやめを助手席に座らせると、ずぶ濡れになった制服にタオルをかけた。運転席に戻って、スマートフォンでスーパー銭湯を探しながら、もう一度あやめの様子を伺った。
一体、どうしてこんなことになったのか。春美はナビの目的地に一番近いスーパー銭湯をセットすると指示器を出して、際限なく流れる車の流れにどうやって戻るか考えながら、車の流れの隙間にどうしても入り込んでくる別の考えに囚われていた。
横井家が引き受けない仕事。そういう仕事は、闇サイトの犯罪掲示板に集まる人間を使う。春美は斡旋用のアカウントを持っていて、『ハマチ』という名前で通っていた。色んな人間が集うが、固定メンバーもいる。いざとなったときの保険のため、ある程度付き合いの生まれた相手に限って、春美は個人情報を把握していた。順から届いたメールに添付されていた、一枚の画像。ひょろりとした黒い影、くるくると巻いた線で表現された髪形。あの男は、誘拐や拉致を専門にする。ハンドルネームは、『もじゃ山もじゃ男』。よく組み合わされる仲間は『リベット三〇』。
二人の名前はそれぞれ、前園孝雄と高山和紀。
春美は、本名だけでなく、二人の自宅の住所も把握している。
親戚への挨拶を済ませた順は、衛の姿に気づいて、声をかけた。衛は窮屈そうにネクタイに手をやりながら、合図するように小さく手を挙げて、順の近くまで歩いてくると、言った。
「遅なったわ」
「かめへん、はーさんも遅れとる」
衛はあまり関心がなさそうにうなずくと、焼香から帰ってきた楢崎と桃子に目で一礼した。何となく四人で輪になったところで、順は言った。
「杏奈が、絵を描いてた」
桃子が首をかしげた。順はスマートフォンの画面を見せた。桃子が幽霊でも見たように目を逸らせ、楢崎が忙しなく瞬きをしながら画面をじっと見つめた。
「は、犯人ですか?」
順はまだ確信がないようだったが、それでも小さくうなずいた。
「複数おるからな。その内の一人なんは間違いないけども、こいつが轢いたんかは分からん」
杏奈の通った小学校の担任や生徒と入れ違いに、祐介のバンド仲間と荘介の同級生が次々に訪れ、衛はその様子を見ながら言った。
「あの二人も、友達が多いな」
順はうなずきながら思った。それが普通なのだ。順と衛の父親は、前科百七犯でありとあらゆる人間の恨みを買って刑務所を出入りし、二人が三十代になる前に死んだ。桃子ですら、葬式には来なかった。衛は楢崎に言った。
「カ……、いや、楢崎。腰はどないや?」
「は、はい。大丈夫っす。回復の兆しがあります」
「なんじゃそら。ちょっと運転頼むから、よう癒しといてくれよ」
衛はそう言って、直感的に入口の方を向いた。春美とあやめが入ってくるのが見えて、順のほうを向いた。
「来たぞ」
焼香を上げて戻ってきた二人に順が手を振ると、春美はあやめを祐介と荘介のほうへ送り出して、輪に加わった。
「ちょっとここでは話せんわ。どっかええ場所ないかな」
祐介は、あやめの制服が湿気ていることに気づいたが、何も言わずにバンド仲間の背中を押して、少し離れたところで会話を再開した。荘介はあやめの制服を見て、遅れて気づいたように言った。
「風邪引くで」
「大丈夫です」
あやめは真っ白に色を失くしたままの顔で、荘介の目をじっと見つめた。息の仕方から言葉の発し方まで、一つ一つの動作を思い出すように呟いた。
「大丈夫ですか?」
荘介は一瞬周りに視線を泳がせたが、すぐにうなずいた。
「親父が心配やわ。雨やばいん?」
あやめはうなずいて袖を絞ったが、水滴はもう落ちてこなかった。
「はい、でもそんなんどうでもいいんです」
「そっか、ごめん」
荘介が言うと、あやめは唇を強く噛んで、俯いた。静かな場のはずなのに周りの音が一斉に耳に入ってきて、その不協和音に息が苦しくなった。荘介があやめに手を伸ばして、肩を支えた。
「来てくれてありがと」
喫煙所で、順が一服目の煙を吐き切る前に、春美が言った。
「あの絵な、闇サイトの人間やったわ」
自分が使う『業者』の一人であることは、隠したところで意味はない。春美は全員の目を一度見ると、言った。
「私も使ったことがある」
桃子が目を見開いた。衛がパーカーのフードを掴み、首を横に振った。順は言った。
「業者の一人か」
春美はうなずいた。そして、続けた。
「誘拐を専門にしてるわ。いつも組んでるのがもう一人おるけど、今回一緒なんかは分からん。住所を言うから、控えて」
名前と住所を控えた衛は、今すぐにでも動きたい様子だったが、順が黙って煙草を灰皿にねじ込むのを見ながら、じっと耐えた。順は最後の煙を肺から吐き出すと、言った。
「お抱えの業者やろ? ええんか?」
春美はうなずいた。
「生け捕りにできたら、私を呼んで。自分の手で殺すから」
「お母さん」