Deep gash
桃子はマグカップの中に煙草を放り込み、ベランダに出た。駐車場に並ぶ車には、夜に降った雨の跡が残っている。出口に一番近い端の、白いチェイサーツアラーV。ジャッキを差し込んでいる楢崎の後頭部が見えて、桃子は呼びかけようとしたが、思い直して冬物のスウェットに着替えると、一階に下りた。楢崎はチェイサーのボンネットを開けて、ジャッキで持ち上げた車体の下に頭をもぐりこませていた。
「風邪引くでもう。朝からなにしてんの?」
「オイル」
楢崎は短く答えると、腰をかばうように体を起こして、廃油処理箱を破くように開いた。隣には、新しいBPのオイル缶が置かれている。楢崎は再び車体の下にもぐりこんで廃油処理箱を置くと、ドレンプラグを緩めて古いオイルを抜いた。廃油処理箱が真っ黒に染まっていく中、再び体を起こすと、桃子に言った。
「杏奈ちゃんは、小さいときから知っとる。ええ子やった。ええ子やったのに、あんな風に死んでまうのは、見てられん」
桃子はうなずいた。楢崎はエンジンの上にあるキャップを少しだけ緩めてから、呟いた。
「昨日は寝られへんかった」
桃子は、夜中にいびきで一度起こされたことを言おうと思ったが、開きかけた口で冷たい空気を吸い込むだけにして、楢崎がチェイサーのオイルを換える様子を見つめた。
「なんで、オイル換えてるん?」
桃子が言うと、楢崎はチェイサーのエンジンを指差した。
「いつでも、車出せるようにしときたいんや。いつでも、いけるやろ」
「ハチ、どないするにせよ、うちの車は使わんと思うで」
桃子は楢崎の背中に触れた。プラスチックの板を差し込んであるように硬く、強張っていた。
「なんで? ツインターボで二八〇馬力あるんやぞ。たいがいの車は……」
楢崎は言いかけて、口をつぐんだ。
「そうか、ナンバーから足がつくか……」
桃子はうなずいて、自分よりも少しだけ背の低い楢崎の体を引き寄せた。そして十一年前、入社したてで運転手らの視線を浴びながら先輩に案内してもらっているとき、初めて楢崎を見たときのことを思い出していた。動物の鳴き声が聞こえてきて角から建物の裏を覗き込むと、その先に楢崎が屈みこんで、野良猫数匹に餌をやっていた。桃子が惹かれたのは、楢崎を見る猫の目だった。自分の何倍も大きな体の人間を、信じ切っていた。楢崎は人間を相手にするには、優しすぎる。桃子は言った。
「でも、その気持ちが大事。ありがとね」
楢崎がオイル交換をする間、桃子は後ろで自分の肩を抱きながら立ち会った。雪が降らないのが不思議なぐらいに冷え込んでいる。エンジンをかけてオイルが下がるまで二人で車の中に入り、途中から流れ出したメタリカの音量を、桃子は少し下げた。暖房をつけたあとは、特に何も言わなかった。
オイルを注ぎ足して量のチェックを終えた楢崎に、桃子は言った。
「終わった? お疲れさま。コーヒー飲もっか」
顧問から大好物のチョコレートを貰い、大川は演奏会の余韻から解き放たれたように笑顔になると、あやめに言った。
「分けよう」
二人で半分に割ったチョコレートを食べながら、控室の熱気から一歩引くように、顔を見合わせた。
「お父さん、泣いとったやんな」
あやめが言うと、大川は呆れたように笑った。
「おセンチやねんから。『新世界より』で泣くとこある?」
「羨ましいと思ったけど。うちのお母さんは真顔で怖かったわ。一番前に座るのに、表情あらへんのやもん」
あやめはリュックサックを引き寄せると、スマートフォンを取り出した。シンプルなケースがつけられているだけで、アクセサリーらしいものはほとんどついていない。大川は笑った。
「あやめのケータイ、ほんま借り物みたいやんな」
あやめは画面に向かったまま笑顔を作ると、一度裏返して、また画面に戻った。
「携帯代は、わたしが払ってるんと違うから」
「うちも親持ちやけど。自分で払ったらめっちゃ着飾るん? なんか想像つかんわあ」
大川が笑い、あやめも笑った。
「自分で払っても、ほどほどにするかもしれん」
あやめは、荘介から朝届いたSMSメッセージを開いた。『演奏会がんばってや。見たかったわ』
返信は忙しさも相まって短く、『はい、全力でいきます』。今見返すと、もう少し普通に文章を考えても良かったと思う。そこから、土曜日会った後、会う前、映画の話をしていたときと順番に遡っていると、耳元で大川が言った。
「見てもうた」
「え? ちょっと待って」
あやめは咄嗟にスマートフォンを裏返して、手を滑らせた。落としそうになったところをすんでのところで捕まえ、画面にすがりつくように指を這わせて手元に持ってくると、小さく息をついた。遡っている途中だったメッセージから最新の『はい、全力でいきます』に戻っており、その真下に『それは、もう』が追加されていた。前に送ったメッセージが予測変換で残っていて、間違えて送ってしまったことに気づいたあやめは、顔を伏せた。
「あーもう、最悪やわ。意味分からんメール送ってしもたやんか」
二人が画面をじっと見つめていると、一分も経たない内に既読になり、入力中のダイアログが現れた。電話の向こうで、荘介が文章を打っている。あやめは息を止めた。大川はあやめの制服の袖を掴み、じっと画面を見つめた。
『全力出すん、今からなん?』
大川が隣で笑った。あやめは慌てて文章を打った。
『送り間違いです、ごめんなさい。送ろうとしてなかったわけやなくて、終わってから開いて見てたら昔のを送ってしまったんです』
あやめは自分で打った文章を推敲してすぐに訂正しようとしたが、大川が横から素早く手を出して、送信ボタンを押した。あやめが大川の手をぴしゃりと叩き、呆れたように宙を向いてロッカーに頭を預けた。
「送ってもたし。もう、ほんまにあかんのやから」
「終わってから見てたとか、可愛すぎんか」
大川はそう言うと、スマートフォンの画面に食いつくあやめの様子をしばらく見ていたが、ふと思いついたように小声で呟いた。
「好きなん?」
あやめは画面を真っ直ぐ見たまま言った。
「好きに決まってるやんか」
「えー!」
大川が大きな声で叫び、口元を手で思わず覆った。琴森がびくりとして振り返り、ずり下がった眼鏡に手を添えると、大川の声が原因でそうなったかのように神経質な手つきで持ち上げた。琴森の視線を逃れた大川は、あやめに言った。
「そんなん、さらっと言わんで普通」
「なんか、慣れてもてん。最近好きになったとか違うから」
「ちょっとスピード感ありすぎて、何言ってるか分からん。いつから?」
「三年ぐらい。でもな、中々会うのが難しい相手やねん」
あやめはそう言って、大川に返信を見せた。
『ちゃんと文章繋がってて、笑ったわ。笑わせてくれてありがと。なんて送ろうとしてたん?』
大川は肺の空気を吐ききるくらい長くため息をつくと、あやめの肩をつついた。
「会いたいって送るつもりやったて大川のおばちゃんが言うてた、って打ちや」
「何それ」
あやめは笑いながら大川のリクエストを無視して、『ほんまは、無事終わりましたって送るつもりでした』と打って送ると、画面を消し、リュックの中に投げ込むように仕舞いこんだ。