英雄譚の傍らで
7.三十年目:真実
住み慣れた洞穴へと戻ってきてからも、体の震えは収まりませんでした。
私は、アルクス憎さのあまり、知らず知らずのうちに罪なき民をも殺そうとしてしまったのです。殺害それ自体は、詠唱中に他ならぬ私自身が気づいたため事なきを得ましたが、私が無辜の民を大量殺害しようとしたと言う事実はもはや拭い去ることはできないでしょう。
私は止まらない震えの中で魔導書を開き、唱えようとした呪文の『敵』の定義と魔法の効果範囲を確認しようとしました。しかし、案の定それらに関する記述は一切書かれていませんでした。
おそらく、この魔法に関する研究は大して進んでいないのでしょう。なにせ、唱える度に聖職者を一人犠牲にしなければならないのですから。たとえ聖職者でも、自らの命を投げ出してまでこの魔法の研究に身を捧げたい者はそうそういないはずです。そして、恐らくは今後もこの魔法の研究が進む可能性は低いでしょう。すでに平和になった世の中で、自分を犠牲にしてまで他人を抹殺する魔法など、必要なわけがないのですから。
私は、なぜか自分が時代に取り残されてしまった人間のような気がして寂しい気持ちになっていました。ステラの弔いをすると心に決めた時点で、洞穴に一人で生きることになった時点で、そんなものは関係ないと思っていました。しかし、心の方ではそのように思っていなかったようです。たかが魔法一つぐらいでと思うかもしれませんが、私にとって、それほどこの出来事は重大だったのです。
それだけではありません。私の心中には、さらにもう一つ重大事がのしかかってきているのです。それは、近日中にアルクスの側近という職に就かなければならないということです。私の敗北にまみれた無様な土下座を、畏れ多くも承諾するという『肯定』の返事と受け取ったアルクスは、なるべく早いうちに、私に城へ居を移すよう指示をしてきたのです。
はっきり言ってしまえば、私はあの男の側近になどなりたくもありません。そんなことをするぐらいなら、ステラの墓守をしていたいのです。ですが、そのような言い訳が今さら通るべくもないのです。ですが、今回の会見で、ステラの墓がかつて勇者アルクスと共に冒険をしていた仲間の墓だということが正式に証明され、すでに城下町から墓守を呼ぶことも決まってしまいました。そして、そのための予算も出されているのです。もう、私が墓を守るべき理由などないのです。
数少ない味方であった子供たちや家族を殺しかけてしまい、時代からも取り残され、やりたい事も奪われ、残されているのは、憎い奴の側近という唾棄すべき仕事だけ。
振り返れば、いつだってそうでした。ステラの死と言い、喰らうことの是非と言い、今回の一件と言い、真実と言うものはいつだって、どんな時だって、残酷極まりないのです。
私は、沈みきった気持ちで考えます。ステラを弔うのは、果たして正しかったのでしょうか? これまでの三十年間、一点の曇りもなかった気持ちに、初めて暗雲が漂い出したのに気づきます。私はその暗雲を必死に振り払おうとしますが、容易に晴れることはありません。
真実は、またしても私に残酷な鎌を振り下ろそうというのでしょうか。そして、私の三十年間をも否定しようと言うのでしょうか。私は激昂のあまり、開きっぱなしの魔導書を乱暴に投げつけます。魔導書は、土壁から剥がれ落ちた少量の土くれと共に近くの床に落下しました。
「……これだけは、ステラを弔い人々の記憶に残そうとしたことだけは、何があっても否定させない!」
私は、ふらふらと立ち上がり焚き火を消しました。そしてそのまま洞穴を出て、ステラの墓前に立ちます。
先日、取り替えたばかりの新しい墓石は、夕陽を受けて橙色に染まり、その姿を惜しげもなく曝け出していました。私は、ステラの墓標をいつになく丁寧に掃除します。悲劇が起きたあの日、焼き尽くされたはずのシロツメクサは、いつのまにか再び美しく力強く咲き誇っていました。
「シロツメクサ、お前も私を置いていってしまったのか……」
私は、墓標の前で神に祈り、そして先刻唱えることのできなかった魔法の詠唱を始めました。
『真実』を呪いながら……。