【短編集】人魚の島
なにやら不穏な考えをもてあそんでいる花純を無視して、俺はテーブルの上のカレー皿をひたとにらみつける。
食うべきか、食わざるべきか。それが、問題だ。
それは、妹の兄に寄せる信頼に応えるべきか否か、という問題にいい換えが可能だ。
俺は横目で花純の表情をうかがう。
純真無垢で、ひたむきな光を宿した、淡いコハク色の双眸とかち合った。そこにあるのは純然たる好奇心と揺るぎない自信、それに「お兄ちゃんなら、やってくれるよね?」という確固たる期待感。とりわけ、期待感が大きいようだ。
俺はもう一度、ため息をつく。この瞳を裏切ることはできない。俺はそこまで無情になれなかったし、花純を喜ばせてあげたい気持ちも強い。それにたとえ実験が失敗したとしても、最後は花純がなんとかしてくれるはずだ──たぶん。
覚悟は決まった。
俺はスプーンをにぎる。
「いただきます!」
と宣言して、ご飯といっしょにカレーのルーをすくい、口許に運ぶ。
花純は満面に笑みを広げる。
「ありがとう、お兄ちゃん!」
テーブルの上に半身を乗りだし、カレーの山を崩していく俺の作業を熱心にながめている。カレーの香りを押しのけて、花純の髪からシャンプーのいい匂いが漂ってくる。シャンプーを変えたな、とめざとく気づいてしまう自分が少しばかりこわい。
しつこいようだが、繰り返そう。
花純は、俺の妹とは思えないような、アイドル級の美少女だ。
おまけに、県立高校に通う平々凡々たる俺とは違い、国立の(かなり特殊な)最難関中学に楽々合格するほどの天才少女でもある。いったい、あの両親が提供する遺伝子のどこにそんな潜在能力が秘められていたのか、俺はいまだに理解できずにいる。宝くじで一等を当てるのと同等か、それ以上の奇跡がいくつも積み重なった結果、生まれてきたのが、花純という女の子なのだ。
で、肝心のカレーの方だが──こいつは文句なしにうまかった。
ごちそうさん。合掌。
国立特殊科学技術大学附属中学校。
略して、特科技中。
花純が通っている学校である。
全校生徒が十人にも満たないこの学校は、国から莫大な金額の予算をつけられている。口さがないマスコミが命名した別名は、「マッド・サイエンティスト養成校」。けだし至言である、というほかはない。
なんでも、由緒正しい「その道」の家系の人々が、退屈に飽かせて世界征服計画を練ったり、地球を壊しかねない無謀な実験に走ったりしないよう、子弟に「正しい教育」を施す目的で設立した学校だそうな。真偽のほどは知らないが、生徒の挙げる成果をこっそり軍事技術に転用しよう、などという裏の目的もあるとか、ないとか。
数少ない花純のクラスメイトは全員が「その道」の家系の出身者である。花純は学校設立以来、初めての一般家庭からの入学者なのだ。
ほとんど無制限といってもいいぐらいふんだんに研究予算を使えるし、好きな勉強ができるとかで、花純は毎日、充実した学園生活を送っている。結構なことじゃないか。特殊な学校だから授業料もタダだしな。親孝行なこと、この上なかろう。
ただひとつ、困った点は、花純たち三年生の指導教官である、なんちゃら博士が一ヶ月に一回、テーマを決めて出す「宿題」の内容である。
タイムマシンも瞬間物質転送機も、花純いわく、「これ」というつくり方がすでに確立されており、基本的な設計をまちがえなければ特に危険はない──そうだ。にわかには信じがたいが。
で、今回、なんちゃら博士が示したテーマは「ナノマシンをつくろう!」。
それも、中学三年間の総仕上げとして、生徒が自分で一から設計する、とのことだ。つまり、お手本は存在しない。マジですか。
「諸君、自作のナノマシンで人類史に燦然と輝く偉業を打ち立てるのだ!」
と、くだんのなんちゃら博士は生徒の面前で高説をぶったらしい。「その道」の子弟がつどう学校の教官を務めるぐらいなんだから、博士の性格や人柄は推して知るべし、である。決して悪い人間ではないのだろうが、どうも指導に熱心なあまり、周囲がよく見えていないきらいがあるように俺には思える。
「学校から帰ってきたら、朝食べたのと同じカレーが出てきたかどうか、教えてね!」
花純は何度も俺に念を押してから(花純が通う学校は、校則で携帯の持ちこみが禁じられているのだ)、バイバイと手を振って家を出た。
俺が制服に着替えているあいだにようやく両親がダイニングキッチンに顔を出した。娘が用意した、カレーという掟(おきて)破りのメニューに面食らいつつも、米粒ひとつ残さず、しっかりと完食する。例のふりかけは花純が学校に持っていってしまった。さすがに両親を実験台にする気はないようだ。兄ならば実験台にしてもOKというのは、愛情の裏返しと解釈してもよいものだろうか。なんとも複雑な心境である。
バスで通学している花純よりも二十分ほど遅い時間に家を出、そろそろ冬も近い晩秋のきれいに晴れ渡った青空の下、気分よくチャリをこぐ。田んぼの真ん中に突っ立つ県立高校まではおよそ十五分。
チャリをこいでいるあいだも、学校に着いてからも、特に体調の変化は感じられない。そもそも、どのような肉体的な影響があるのか、俺はよく知らない。花純は「率直な意見を聞きたいから、変な先入観は持たせたくないの」とかいって、ナノマシンの詳細な働きを教えてくれなかったのである。花純の言を信じるのならば、どこかが痛くなるとか、吐き気を催すとか、そういう悪影響は「絶対にないから!」ということだが……。
ふむ。具合が悪くなるどころか、すこぶる体調がいいような気がするぞ……。
「石塚」
と、俺の斜め前の席に座る栗山(小学校からの腐れ縁がいまだに続いている悪友だ)が黒縁眼鏡を光らせ、鼻をクンクンさせながら、
「朝からカレーを食ってきたのか?」
「やっぱり臭うか?」
俺はシャツの袖に鼻を近づけて臭いをかぐ。かすかなカレー臭が鼻についた。
「今朝は特別メニューだったからな。妹がつくってくれたんだ」
「なんだと? 花純ちゃんが?」
おまえが俺の妹の名前を気安く口にするんじゃねえよ。なんか知らんが、ムカつくぞ。
「うらやましいねえ。ぼくも花純ちゃんがつくってくれたカレーを食べてみたい!」
栗山が自分の席のなかでクネクネと身悶える。こいつがなにを妄想しているのか、知りたいとは思わないが、知ったら知ったで確実に殺意が芽生えそうだ。
「もしかしたら、おまえも花純のカレーを食えるかもしれねえぞ」
「ホントか!」
栗山の眼鏡の奥で、糸のように細い両眼が異様な光を放つ。
「いつ食べられるんだ?」
「さあな。たぶん、今日中だろうと思うけど。俺にもわからん」
栗山が怪訝な顔をする。さらになにかいい募ろうとするヤツを手で制する。
「まあ、気長に待てよ。出てきたら、おまえにやるから」
「出てくる? どういう意味だ、それ?」
「文字どおりの意味だよ。どこから出てくるのかを知ったら、おまえ、びっくりするぞ」
俺が陰気に笑うと、栗山も曖昧な追従笑いを洩らす。