【短編集】人魚の島
妹の宿題を手伝ったら俺の人生が変わりました
ひたすら眠いし、ひたすら寒い。
俺は自分の肩を抱いて身震いする。
気持ちよく寝ていたところを中学三年になる妹の花純(かすみ)に起こされたのが五分ほど前。
花純に請われるままダイニングキッチンのテーブルにつき、肌を刺すような寒さに震えながら待つこと数分。
俺の目の前に出てきたのは、実にうまそうなカレーの皿だった。
どちらかというとビーフカレーよりもポークカレーの方が好みなのだが、花純は俺の好みもちゃんとわきまえていて、黄金(こがね)色のルーをまとったポークが、ジャガイモやニンジンのあいだから恥ずかしそうに顔をのぞかせている。
俺は花純を見つめる。花純は無邪気に目を輝かせて俺を見返す。
兄の俺がいうのもなんだが、「美少女」という形容にふさわしい女の子であることはまちがいない。サラサラの長い黒髪は耳のすぐ上あたりでツインテールに束ねている。高級陶磁器のような白い肌とサクラ色の唇。すっきりとした目鼻立ちに繊細な顎のライン。これで女性らしいふっくらとした曲線を備えた身体つきでもしていれば非の打ちどころがないのだが、いかんせん胸はないし、ピンクのエプロンに包まれた肢体も凹凸にとぼしい。まあ、いまは成長の途上である、ということにしておこう。存外、本人も自分の体型を気にかけているようだからな。
そんなことよりも、問題は目前のカレー、だ。
花純は料理が得意だ。つくれない料理はおよそ皆無であると断言してもいい。花純の手料理に舌鼓を打ったことも一度や二度ではない。最近はパートの仕事で忙しい母親に代わって花純が夕飯を用意することも多い。なかでもカレーは花純の十八番(おはこ)の料理であり、市販のルーを使っているはずなのにとてもそうは思えないような、フレーバーでコクのある味わいに幾度となく驚かされてきたものだ。
しかし、である。
「学校の宿題に協力してね、お兄ちゃん」
そんなセリフといっしょに出されたカレーは、俺がこれまでに堪能してきたあまたのカレーと同一視してもいいものだろうか?
おまけに、いまは朝の七時。これから一日が始まる時間帯だ。
朝からカレーを食ってはいけない、という法律はない。が、朝食にカレーというのはずいぶんと異例のメニューである。ご多分に洩れず、トーストに卵焼き、サラダというのが我が家の朝食の定番なのだ。もはや不文律と化した観さえある朝食のメニューを無視してまで、朝早くからカレーをこしらえるのがそもそも尋常ではない。さらに、「学校の宿題」とやらがからんでくるとなると、どうあっても用心しないわけにはいかないだろう。なにしろ、花純が通っている学校は普通の学校じゃないんだから。
そんな俺の、マリアナ海溝よりも底深い物思いをまるで気にするふうもなく、花純はテーブルの上に置いてあったふりかけの容器を手にすると、カレーにまんべんなくふりかけた。
「ちょっ……カレーにふりかけかよ?」
「大丈夫。絶対、おいしくなるから」
俺はさらに警戒を強める。
「そのふりかけ、おまえがつくったのか?」
「うん。そうだよ。これが学校の宿題なの」
「ほー、そうかい。よかったら、なんのふりかけなのか、教えてくれよ」
いまの質問を心待ちにしていたらしく、花純は唇の下に右手の人差指をあてて、満足げににっこりと微笑んだ。
「お兄ちゃん、ナノマシンって知ってる?」
「ナノマシン? 確か、極小サイズの機械のことだっけ?」
「そう。だいたいウイルスと同じぐらいの大きさの機械よ。このふりかけはナノマシンでできているの」
俺はホカホカと湯気をたてているカレーの皿を見下ろす。ご丁寧に福神漬けまで添えられた、魅惑的な黄金色の起伏と、白いご飯で構成された斜面にじっと目を凝らす。見たところ、目立った変化はない。変色もなさそうだ。
「……で、なんの働きをするナノマシンなんだ? 味の調整でもするのか?」
「それも大事な機能のひとつだけど、もっと重要な働きがあるんだよ。画期的な発明なんだから。この実験が成功すれば世界の食糧問題は一気に解決されるの!」
「そいつはすげえな。どうやって解決するんだ?」
「人間の身体って老廃物を体外に排出するでしょ? それを利用するの。あたしが開発したナノマシンは人体に取りこまれたら、不要となった体内の物質を使って、分子レベルで食糧を合成するんだよ。つまりね、完全な食糧のリサイクルが可能になるの。どう? すごいでしょ? 感心した?」
「あー、要するに、オシッ○やウ○チを材料にして食糧をつくる、ということか?」
「やめてよ、そんないい方! 使いようによってはガン治療にも有効なんだから」
「真相を糊塗したところでしかたあるまい?」
「でも、画期的な発明だと思わない?」
「まあ、そういえるかな。ところで、なんでカレーにふりかけるんだ? ナノマシンを体内に取りこむだけなら、水で飲み下してもいいような気がするけど?」
「活性化後に認識した食べ物を合成するようになってるの。実験が成功すれば、お兄ちゃんが食べたカレーとまったく同じものができあがるはずだよ。お兄ちゃん、カレー、好きでしょ?」
花純は両方のこぶしをにぎってグッと盛りあがる。
「だから、お願い。お兄ちゃん、実験に協力して!」
俺は花純を正視する。花純も負けじと等圧力の視線を返してくる。
「ひとつ確認しておく」
「なに?」
「食べても死んだりしないよな?」
「あったりまえじゃない。あたしが開発したんだよ?」
エッヘンと貧弱な胸を反らして花純はいばる。
「おまえが先月、学校の宿題とやらで開発した瞬間物質転送機な、あれの実験に協力したときのことを憶えてるか?」
「あ、あれは……」
花純は白い頬をポッと朱に染め、顔の前でワタワタと両手を振る。
「だって、転送機にハエがまぎれこむとは思わなかったんだもん!」
「もう少しで俺は怪奇ハエ男になるところだったな」
「転送直前に気づいたから事故にはならなかったじゃない」
「それから、タイムマシンの実験にも協力したことがあったろ? あのときは三分後の未来に出現するはずだったのに、なぜか白亜紀へ飛ばされて、あやうくティラノサウルスの晩飯になりかけたっけ。いまでも悪夢に見るぜ?」
「け、計算を少し間違えただけじゃない。マシンに問題はなかったんだから。単純なインプット・ミスだよ?」
花純は涙目になって、
「あたし、お兄ちゃんが飛ばされた時代を特定するために徹夜したんだからね。ホント、お兄ちゃんのことが心配で、心配で……もし、お兄ちゃんに万一のことがあったら……」
「万一のことがあったら?」
「お兄ちゃんの体細胞のサンプルは手許に残ってたから、そこからクローンでもつくろうって真剣に考えてたんだよ?」
俺はため息をつく。花純ならやりかねない、と思った。まあ、俺がふたりに増えなくてなによりだった。花純だったら実験対象が二倍に増えたと素直に喜ぶかもしれないが、ただでさえ家計のやり繰りに四苦八苦している俺の母親が耳にしたらその場で卒倒しかねない。
「あ、でも、クローンをつくるときにY染色体をX染色体に置き換えちゃえば、お兄ちゃんじゃなくてお姉ちゃんができそうだね。お姉ちゃんっていうのも、案外いいかも……」