【短編集】人魚の島
このときの俺は、原材料となる老廃物が、人体の体外に排出されたあとで食べ物に生まれ変わるものだとばかり思いこんでいたのである。考えてみると汚いハナシだが、もとはなんだったのかを気にしなければいいだけさ、と気軽に考えていた。
甘かった。
花純は、女の子である。
女の子がそんな下品で下劣なナノマシンをつくるわけがない。
俺は、根本的なところで考え違いをしていた。
それが判明するまでに、思っていた以上の時間はかからなかった。
一時間目、数学。二時間目、英語。
いつもだったら睡魔の軍団が俺の頭の周囲でフォークダンスを踊りだしても不思議はないのだが、今日はやたらと頭が冴えている。眠気はまったくない。これも花純のナノマシンの効果なのか? 知力・体力が向上するようであれば、なおいいのだが。
花純のナノマシンの効果をさらにはっきりと意識するようになったのは、三時間目の日本史の授業が終わったあたりからだ。
まるで尿意を催さない。少なくとも午前中に一回はトイレに行くのだが、俺の膀胱はどうやら渇水期のダムのごとく干上がっているらしい。心なしか、身体も少し軽いような気がした。
うーむ、俺の体内ではなにが起こっているんだろう?
トイレから帰ってきた栗山がハンカチで手をふきつつ、自分の席から俺を上目遣いに見る。
「どうした、石塚? 浮かない顔をして。なにか心配事でも?」
「いや、別に心配事があるわけじゃないが……」
「カレーの方はどうなったんだよ?」
「もう少し待て」
四時間目、現代文。
中年男性教師の耳障りなダミ声が脳天を直撃しても、これまでにないぐらいさわやかな気分で授業を受けられたのは気のせいだろうか。なんかこう、頭のなかを覆っていたスモッグがすっきりと晴れたような感じだ。
チャイムが鳴って、昼休みとなる。
熾烈な争奪戦のすえに購買部でゲットした特盛り焼きそばパン三個とブリックパックの野菜ジュースを抱えて、教室へ戻る。食べる前にトイレにでも行っておこうか、と思ったが、出そうもないものはどうあっても出ない。
まあ、なるようになるだろう、と気持ちを明るい方向へと切り換え、一個目の焼きそばパンにかじりつく。こだわりの厳選素材でつくったベニショウガのピリリとした辛味を味わっていると、弁当をたずさえた栗山が、俺の机に自分の机をくっつけてきた。
「……昼休みになってしまったぞ」
と、無念そうな口調で、栗山。弁当の包みを広げる(聞くところによると、ヤツの弁当は自作らしい)。重い吐息。弁当に視線を落として、
「花純ちゃんがつくってくれたお弁当が食いてえ……」
「誰がおまえなんかに……」
「ところで、石塚」
「なんだよ?」
「おまえの頭の上にあるそれ、なんだ?」
「え?」
焼きそばパンを持っていない方の左手で自分の頭に触れる。なにやらグニャリとした、柔らかい感触の突起物に触れた。指でさぐってみると、頭頂部の周囲がその妙な突起物にすっぽりと覆われている。
「な……」
俺は絶句する。
栗山は眼鏡の奥の目をへの字に曲げ、
「なんか、あれだな。カッパの皿みたいだな。色も黄緑色でさ。なんだよ、それ?」
「…………」
言葉が出てこない。痛みもかゆみも全然感じなかった。栗山に指摘されるまで、まったく気づかずにいた。
これがなんなのかは想像もつかないが、なにが原因でできたのかは容易に推測がつく。花純のナノマシンだ。それしか考えられない。
頭皮からはがそうと端をつまんで引っ張ってみたが、ぴったりと貼りついていてどうにもならなかった。どうやら、頭皮と一体化しているらしい。もしかしたら、皮膚と髪の毛の一部が変化したものなのかもしれない。
栗山はひとしきり笑っていたが、世にも情けない表情の俺を目にすると急に黙りこんだ。ウィンナーをつまんだ箸の動きを止め、机の上に身を乗りだす。俺の頭の上をしげしげと観察して、それから俺の顔をのぞきこむ。その動作を三回繰り返したあと、栗山は眼鏡のブリッジを左手の中指で押しあげ、ぎこちない笑みを浮かべた。
「とてもよく似合うぞ、石塚」
「……いうことはそれだけか?」
「で、花純ちゃんのカレーはどうなった?」
「知るか!」
ひょっとすると、感情を爆発させたせいで一気にナノマシンの働きが活発化したのかもしれない。真相はわからんが。右手に持った焼きそばパンが、俺の握力であわやつぶされそうになったそのとき──ポン! クラッカーの弾けるような軽い音が俺の頭上で鳴り響いた。
突然、俺の頭頂部に重みが加わる。それと同時に、カレーのいい匂いが漂ってきた。
栗山があんぐりと口を開けたまま、俺の頭のてっぺんをながめていた。箸からウィンナーがポロリと落ちて、ケチャップのあとを引きつつ机の上をコロコロと転がる。
手を伸ばして、頭の上に出現したものをまさぐる。指先にセラミックのすべすべした感触が伝わってきた。楕円形の、適度な深さがある皿──気のせいだろうか、我が家で使っているカレー皿によく似ている。
両手の指を皿の両端にかけて慎重に持ちあげる。ペリリと小気味よい音がして俺の頭から皿が離れる。
俺と栗山の中間に皿を置く。皿には炊きたてのご飯がこんもりと盛りあがり、黄金色に輝くカレーのルーがご飯の山の半分ほどを隠していた。もちろん、ポークカレーだ。福神漬けを添えるのも忘れていない。
今朝、俺が食べたものとそっくり同じカレーがそこにあった。皿まで同じである。
栗山が点目になってカレーの皿を見下ろす。カレーから立ちのぼる湯気が眼鏡のレンズを曇らせた。
俺は無理やり笑顔をつくる。頬の筋肉がチックを起こしているのがわかった。
「どうした? おまえが食べたかった花純のカレーだぜ? 遠慮せずに食べろよ」
俺の頭頂部に忽然と出現したカレーを、栗山がどう解釈したのかは知らん。たぶん、巧妙なマジックだとでも思ったのだろう。数秒間、栗山は凝固したままでいたが、ギクシャクとした動きでカレーの皿に箸を伸ばし、ご飯をすくいあげると、そのまま口に運んだ。
ご飯を口に含んだとたん、栗山の顔つきが一変する。恍惚とした表情が浮かび、頬がだらしなく弛緩する。
「……うまい」
栗山が猛然とカレーにかぶりつく。皿は現れたが、スプーンまではついてこなかったので、不便をガマンして箸で食べるしかないのだが、栗山はいっこうに気にならないようだ。カレーのルーにくるまれたポークをかみちぎり、ジャガイモとニンジンを丸呑みする。自分の弁当そっちのけで、一心不乱に箸を動かし、カレーをかきこむ。
栗山は泣いていた。泣きながら食べていた。にきびで荒れた頬を透明な涙の粒がつたい落ち、ヤツの弁当のおかずの、うっすらと焦げ目のついた卵焼きを濡らす。
「石塚!」
カレーを完食した栗山は涙で濡れたおもてをあげ、声を震わせた。
「ぼくはいま、猛烈に感動してる! 頼む、今日からおまえをお義兄(にい)さんと呼ばせて……」
全身の血液が凍結したかのような寒気を感じて、腕に鳥肌が立った。
栗山のセリフの続きを妨害したのは、俺の頭上で弾けた「ポン!」という軽快な音だった。
無言で頭の上に手を伸ばした。指に触れたものをペリペリと引きはがす。