【短編集】人魚の島
「そうです。でも、ティアナというのもわたしの名前の一部ですよ。わたしにはいくつも違った名前があります。わたしをティアナと呼ぶのは、わたしの家族だけです。わたしの兄弟姉妹と……それに、お父さま」
「娘であるあんたを殺そうとした父親のことか?」
「わたしは、お父さまの方針に逆らってばかりでしたから。嫌われてもしかたありませんね。お父さまよりも、叔父さまの意見に賛成することが多かったですし……」
「王弟のガラムド大公のことだな?」
「ええ、そうです。〈風の帝国〉のボルグ皇太子とわたしの婚約を推し進めたのも叔父さまです。お父さまは反対されていましたが……わたしには、それが両国のあいだに恒久的な和平をもたらす、最良の手段であるように思えました」
「そうだとしても、あんた自身が政略結婚の道具になるんだぞ?」
「王家に生まれついたんですから、それぐらいの覚悟はあります。それに……みんなはタヌキとか陰口をたたきますけど、肖像画を見るとボルグ皇太子はなかなかの美男子ですよ?」
「ただの絵だろ? 実物には会ったことがねえんだな?」
「ありません。もうすぐ会えるはずでしたが……わたしの希望はかないませんでした」
ティアナが力のこもらない声で笑う。ひとしきり笑うと、湿った吐息をついた。
「あなたが言っていた国王の使節船──その船にわたしも乗っていました」
「なに?」
「ボルグ皇太子に会うために、わたしは海を渡っていたんです。〈嘆きの岬〉──船の墓場と呼ばれる危険な海域ですね。わたしが乗った使節船も、そこで沈みました。けれども、嵐にあったわけではありません。使節船は、〈風の帝国〉の軍船に扮した敵の襲撃を受けて、海中に沈んだのです。わたしはその目撃者です」
「〈風の帝国〉の反皇帝派の連中の仕業か?」
「違います。わたしが乗った使節船を襲ったのは、〈カラスの羽〉と海軍の国王一派が乗っ取った軍船──それを命じたのは、わたしのお父さまです」
ダンは言葉を失う。国際政治という暗黒の領域の、そのあまりにも深い闇におぞけだった。
「なぜ……なぜ、そんなことを? あんたは国王の娘じゃねえか!」
「おそらく、〈風の帝国〉との和平交渉を中断させるためです。使節船を沈めたのは〈風の帝国〉の謀略だと決めつけて、交渉を決裂させるつもりなのでしょう。実際、あの事件のあと、和平交渉は中断してるようですから」
「そんなことのために自分の娘を殺そうしたのか!」
「和平交渉が決裂したあと、お父さまは軍勢を集めて海を渡るつもりでいます。それはいま、現実になりつつあります」
ダンはハッとする。自分が聞きかじった情報──東部で国王が兵力を集めている、というのはここにつながっていたのだ。宿屋の食堂での会話──あのとき、戦争が起きることを期待している自分に、ティアナは激しい怒りをぶつけていた。その理由が、いまようやくわかった。
忸怩(じくじ)たる思いが胸のうちに広がっていく。自分は本当のことをなにも知らなかった。それなのに、さも世間を知っているかのような態度で、得意になって話していた。その思いあがりが、いまとなってはとても恥ずかしかった。
ティアナはさらに語り続けた。
「わたしは死んだものだと思われています。まだ公式の発表はないようですが……近いうちに、病死ということでわたしの死亡が発表されるでしょう」
「どうしてあんたは自分が生きてることを公表しねえんだ? そうすれば、国王の横暴を止めることだってできるはずだろ?」
「わたしは……」
次のひと言を口にするのに、ティアナはしばしの間をとった。
「わたしはもう死んでいるんです。あのとき、海に落ちて溺れ死にました」
「なにを言ってるんだ? あんたはこうして生きてるじゃねえか!」
そうは言いながらも、ティアナがまぎれもない真実を語っている、ということをダンは直感していた。ただ、認めたくなかったのだ。自分が命を張って守ってきた銀髪の少女がすでに死んでいる、などという非日常的な事実を。
「ダン、わたしの胸に耳をつけて、心臓の鼓動を聞いてください」
「……え?」
「遠慮しなくていいんですよ。心臓が動いてるか、あなた自身の耳で確かめてください」
ダンはゴクリとツバを飲む。ふくよかに盛りあがったティアナの胸──その柔和なふくらみにおそるおそる顔を近づけ、目をきつく閉じる。意を決して、彼女の胸に右耳を押しつけた。甘ったるいにおいがきつい。鼻がおかしくなりそうだ。
温もりを感じる肌の下に──鼓動の音は聞こえなかった。いや……脈動は感じる。左胸ではなく、もっと別のところに。力強く、それでいて心臓の鼓動とは明らかに異なるリズム。
ダンは身を起こした。黒い心臓。それが、収縮を繰り返している。動くのをやめてしまったティアナの心臓の代わりに。
「……そんな……そんなことって」
「人魚はどうやって生まれるのか、知っていますか?」
ティアナの問いに、ダンは無言でかぶりを振る。
「わたしも知りませんでした。あのひとが……浜辺に倒れていたわたしを介抱してくれた、片目のない漁師がわたしに教えてくれたんです。人魚は海で死んだ人間が生まれ変わったものだ、と」
ダンはティアナの顔をマジマジと見つめた。銀髪の少女は笑みを浮かべていた。屈託のない、純粋で、自然なかたちの笑みを。
「海で死んだ女に人魚は卵を生みつけるんだそうです。実際は、卵とは違うようですが……あのひとはそう言っていました。人魚の卵、と。これが、そうです」
ティアナは、自分の胸に埋もれた黒い心臓を左手で包みこむ。
「卵は一旬日のあいだ、死んだ身体を生きていたときと同じように動かしてくれます。息をするし、普通に食べることもできます。いまのわたしは死んでもいるし、生きてもいる──そんな中途半端な状態なのです。でも、この身体はゆっくりとですが、腐りはじめています。わたしの身体、におうでしょ?」
だから、ティアナはふんだんに香水をつけていたのだ。自分の肉体が腐っていくにおいをごまかすために。
「わたしの目……もとは緑色でした。色が黒くなったのは、人魚の卵を生みつけられたからです。あのひとはそのことも知っていました。当然ですね。そのひとの娘も海で死んで、人魚になったそうですから。わたしのように……」
ザッカスはティアナの黒い目を見て、たちまちそのことを喝破してみせた。ティアナは人魚に魅入られてる、と。その意味を、ダンはいま知った。
いまから思うと、ティアナと人魚を結びつける要素はほかにもあった。
見かけからは想像もできない、ティアナの腕力の強さ──金果酒で酔いつぶれたダンを二階まで運びあげたり、硬い白リンゴの実を素手で割ったりした。ティアナが大きな赤い樽を軽々と持ちあげて、男たちに投げ飛ばしていたのを思い起こす。人魚は、強力な力で人間を海中に引きずりこむ、という言い伝えがあるが、その一端は真実だったのだ。
さらに、人魚の歌を聞いたときの、ティアナの気持ち──海で死んだひとの魂を慰める歌、と彼女は表現していた。海で死んだのは、ティアナ自身だった。
「かりそめの生を終えて人魚になるのなら……この島で最期を迎えたい、と願っていました。人魚たちが集う、この島で……」