【短編集】人魚の島
「〈人魚の島〉を目指したのは、それが目的だったのか?」
「本当はこわかったのかもしれません。自分の身体がどんどん腐っていって、そこから新しい人魚が生まれる……そんな醜い姿を見られたくない、と心のどこかでは思っていました。いっそ人魚に生まれ変わるのだったら、このまま死んでしまいたいとも……」
「おれを雇ったのはなぜなんだ? 〈カラスの羽〉の連中が襲ってくることを知っていたからか?」
「いいえ。わたしは死んだと思われているはずですから、誰かがわたしを殺しにくるとは考えていませんでした。たぶん、〈カラスの羽〉がわたしのことをどこかで聞きつけ、わたしは生きている、と思ったのでしょう。あのひとも……わたしを助けてくれた片目の漁師も、〈カラスの羽〉に見つかって殺されてしまいました。わたしにかかわったばかりに……」
ティアナはギュッと目を閉じ、震える息を吐きだした。涙の透明な粒が、白い頬をすべり落ちていった。声を殺して、ティアナは泣く。ダンはそっと指を伸ばして、ティアナの涙を指先にすくった。彼女の涙は温かった。
「ダン、あなたを雇ったのは、いつでも死にたいときに死ねる、と思って安心するためです。〈人魚の島〉にたどりつけなかったり、やっぱり人魚に生まれ変わるのはこわいと思ったりしたときは、あなたにわたしを殺してもらうつもりでした。あなたに期待していたのは護衛なんかじゃなくて、死体の処分だったんです」
「そんな言い方はやめろ。おれはあんたを殺したりなんかしねえ。頼まれてもな。おれがそんな仕事をすると思っているとしたら、あんたは──底なしの大バカだ」
ティアナが声をたてて笑う。おかしそうに。笑って息が乱れると、腕を伸ばし、ダンの左のこぶしに自分の手を重ねる。
「あなたらしいですね。わたしはあなたという人間を見誤っていました。おカネのためならなんでもするだろうと思いこんでいたんです」
長々とため息をつく。
「きっと、わたしにはひとを見る目がないのでしょう。あなたのいうとおり、わたしは大バカです。あなたから化け物と呼ばれるのがこわくて、本当のことを言えませんでした。あなたがそんな人間じゃないことはすぐにわかったのに……」
「……あんたが人魚になるまで、あとどれぐらいかかるんだ?」
違う。訊きたかったのはそうじゃない。答えは同じでも、質問のしかたが違った。本当はこう言いたかったのだ。あんたがティアナのままでいられるのは、あとどれだけなんだ、と。
「もうすぐ……わたしにはわかります。わたしは今夜、生まれ変わるでしょう。新しい人魚に」
ダンの身体が震える。震えを止めようとしても、どうにもならなかった。
あと半日……そんな短い時間で、この世界からティアナはいなくなってしまう。生まれ変わった人魚──その人魚が、どれだけティアナの面影を遺しているのかはわからない。だが、もとはティアナだった人魚は、ダンのことをおそらく憶えていないだろう。ダンが話しかけても、言葉は返ってこないだろう。彼女は、ティアナとは別の生き物だ。
腰の巾着に入ったままの強精剤を突然、強く意識した。ザッカスはこのクスリをティアナに与えれば、彼女は死ぬ、と告げていた。いまここでクスリを飲ませれば、ティアナはティアナのままで、ダンの目の前で息を引き取るはずだ。
(どのみち、ティアナを失うんだったら、おれが見ているところで……)
ティアナが目を閉じ、浅い呼吸を繰り返す。彼女が見ていないのを確認すると、空いている右手で巾着から丸薬を取りだす。指が震えた。右のこぶしのなかにギュッとクスリの粒をにぎる。あぐらをかいた膝にこぶしを置く。息苦しさを覚えた。まるで周りの空気が燃えているかのようだった。
「いまはなにもおそれていません」
目を閉じたまま、ティアナが言う。
「この島の人魚たちが見守ってくれています。わたしは、彼女たちの仲間になったんです」
(ティアナに……クスリを……)
ティアナがうっすらと目を開く。微笑んだ。温かく。
「ありがとう、ダン。わたしを守ってくれて……ありがとう」
ダンはためていた息を吐きだす。胸のうちに鋭い痛みが走った。その痛みはひとしずくの涙にかたちをかえて、彼の頬を流れ落ちていった。こぶしを開く。丸薬はポトリと落ちて、地面のあいだに転がった。
人魚を醜い化け物だと考えていたのは誤解だった。いまなら、それがわかる。彼女たちは人間から生まれた、人間とは決定的に生き方の違う生命なのだ。人魚をおそろしいものだとは思っていない。彼女たちを醜いとも思わない。むしろ、美しいとさえ思う。その容姿も、歌声も、死を乗り越えて別の生を生きる命の循環も。
そうであっても──
ティアナに生きていてほしかった。彼女に死んでほしくなかった。いつまでも守ってあげたかった。
(ティアナ……おれは、あんたのことを……)
「ダン、お願いだから悲しまないで。わたしに……つらい思いをさせないで」
手の甲で涙をぬぐう。笑おうとしたが、笑みは口許まで届かない。心の奥底で凍っている。無理に笑おうとすると心がよじれて、裂け目からどす黒いものがしみだしてきた。
「ダン」
ティアナが彼の名を呼ぶ。いくつもの想いをそこにこめて。
ダンは目をしばたたく。ティアナが微笑んでいる。その笑みにふれて、ようやくダンの表情が緩む。微笑のかけらがダンの口許を飾る。
「ダン、キスして。お願い……」
ダンは身をかがめ、ティアナと唇を重ねる。夢中で彼女の唇をむさぼった。口づけは、凍結した彼の心を少しずつ溶かしていった。
聞こえてくる。力強い鼓動を感じる。ティアナの胸で黒い心臓が脈を打っている。
それは、生まれてくる人魚の胎動でもあった。
人魚が案内してくれた砂浜には、小さなボートが転がっていた。
具合を確かめる。ほとんど無傷だ。ボートの底には、防水布でくるんだ非常食と飲料水が釘で固定されていた。非常食は黄色く変色して食用にならないが、飲料水のほうはまだ飲めそうだ。変色した食糧を捨て、調達したばかりの食べ物──果物や木の実、焼いた魚をボートの底につめ、上から防水布をかぶせる。
出発の準備が整った。ボートを引きずり、波に逆らって沖へと運ぶ。
人魚たちが手伝ってくれた。ボートを沖合まで引っ張ってくれる。オールの代わりの木の棒で方角を調整し、潮に乗る。
人魚たちが手を振っている。ダンも手を振って、それに応えた。
潮の流れが速い。一時間もしないうちにダンを乗せたボートは〈人魚の島〉を離れ、果てしなく広がる大海へと乗りだしていった。
頬に陽射しが熱い。海面に砕ける白い波頭を追いかけてイルカが飛び跳ねる。
ダンは唇をこする。熱を感じた。いまでも、そこに。
銀髪の少女はいま、第二の生を迎えるべく、あの島で深い眠りについている。別れはすませてきた。悔いはない、と言えばウソになる。人魚の姿を見かけるたびに、自分はそこにティアナの影を探すだろう。彼女はもうこの世界のどこにもいないのだ、とわかっていたとしても……。
海を吹き渡る風が一瞬、凪(な)いだ。
ダンは肩越しに振り返る。
遠く、蜃気楼(しんきろう)のようにかすむ島影の上空で、海鳥の群れがいつまでも舞っていた。