【短編集】人魚の島
9
波の音。寄せては、返す。
海鳥のざらついた声がうるさい。
陽射しのぬくもりを全身に感じた。
ごくゆっくりと目を開ける。
ダンの顔をのぞきこんでいる複数の人影が見えた。若い女性。髪の色はまちまちだが、彼女たちにはひとつの共通点があった。漆黒の双瞳。
女たちは上半身になにも身につけていなかった。かたちのよい胸のふくらみを隠すことなく、ダンの視線にさらしている。ダンは目のやり場に困る。隠していないんだから、心ゆくまで堪能すべきだろうか、と考えたところで──やっとすべてを思いだした。
ガバッと起きあがる。女性たちが急な動きにびっくりして、あとずさる。足のない、魚体の下半身をくねらせて。
おのれの身体を点検する。服を着ていないことに気づいた。腰にまといつく下着だけになっている。あちこちに刺さっていたはずの矢はどこにもなかった。それどころか、痛みを感じない。肌を指でまさぐる。うっすらとしたピンク色の傷痕が残っている。矢傷だけではなく、剣で斬られた傷も治っていた。
かたわらに、ボロボロになった服と、小さな巾着(きんちゃく)が置かれていた。巾着の中身を調べる。金貨と銀貨が数枚、それにザッカスからもらった強精剤が入っていた。
ダンは当惑し、周りにいる女性──人魚を見回す。人魚たちは微笑みを返してきた。
「ここはどこだ?」
人魚たちは微笑んでいるだけ。
ダンがいまいるのは、波が打ち寄せる砂浜だった。波打ち際にはたくさんの人魚の姿が見える。日光浴だろうか。砂に寝そべり、気持ちよさそうに寝ている人魚もいる。
「……こんなにたくさんの人魚がいるってことは……ここは〈人魚の島〉だな」
微笑みがさんざめく。さかんに尾びれを打ち振っているのは、あるいは肯定の意味なのかもしれない。
何度か会話を試みたが、どうやら言葉は話せないらしい。あんなにきれいな歌声を持っているのに……。
それよりも目下の関心は、いまここにいない銀髪の少女のことだった。ティアナを探す。どこにもいない。
ムダと思いつつも、そばにいる人魚にティアナの居場所を尋ねる。意外にも、人魚はにっこりと微笑んで、波打ち際から少し離れた場所──傘のように枝葉を広げた低木の繁みを指さす。
周囲にいるのは人間の女性ではない、と知りつつも、下着姿でいることに恥ずかしさを覚え、破けて穴だらけになった服を身につけた。上衣も腰着も、潮を吸ってゴワゴワになっている。破れ目の周りには血のシミがうっすらと残っていた。
人魚が教えてくれた場所まで歩いていく。樹の下の日陰に誰かが横たわっていた。病人を看病する付き添い人のように、四人の人魚が取り囲んでいる。ダンが近づくと、四人の人魚がいっせいに振り向いた。黒い瞳をひたとダンに据え、オモチャがもらえるのを待っている子供みたいに、無邪気に顔を輝かせている。
樹の下で横になっていたのはティアナだった。ダンは立ち止まる。喉の奥から思わず嘆声が洩れた。
ティアナは全裸だった。目をつぶり、両手を白いお腹の上で組んでいる。ツヤのある銀髪が胸からへそまで広がり、腰をつつましやかに隠している。
ダンは食い入るようにティアナを見つめた。彼女の豊かにふくらんだ胸──その胸の谷間にタマゴのような、黒くて丸いものが盛りあがっていた。よくよく観察すると、それは規則的な間を置いて収縮を繰り返している。
まるで──そう、まるで心臓の鼓動のように。
ダンの気配を感じたのか、ティアナが静かに目を開く。人魚と同じ、黒い双眸がダンをとらえた。微笑む。ひっそりと、はかなげに。
「ティアナ……」
「そんなにジロジロ見ないでくれますか? 恥ずかしいです」
「ご、ごめん」
ティアナはクスリと笑う。四人の人魚が目で合図を交わし、浜辺へと戻っていく。ダンとティアナのふたりがその場に取り残された。
潮を含んだ強い風が吹き渡ってきて、芽吹いたばかりの若葉が群れる葉むらをざわめかせる。金色の陽射しを降り注ぐ太陽は中天に高く、水平線の彼方で真っ白な入道雲が青い空に層を重ねていた。軍船に乗り移ったときは午後の遅い時間だったことから、あれからほぼ一昼夜が過ぎていることをダンは知る。
ダンの物思いを表情から読んだのか、ティアナがささやくような声で言った。
「人魚がわたしたちをこの島へ連れてきてくれたんです。ダン、あなたの傷は彼女たちが癒してくれました。人魚の唾液には、傷を何倍もの早さで治してくれる特別な働きがあるんです」
「……おれは一晩中、人魚に全身を舐められていたということか?」
「どんなことをされても、あなたは目を覚ましませんでしたけれどね」
ダンは口をとがらせる。上半身裸のたくさんの若い女に、寄ってたかって身体を舐められるなんて……そんな体験は二度とできないだろう。意識がなかったのは残念だったような気もするが、身動きもままならない状態で身体のすみずみを舐めまわされるところを想像すると、それはそれでかたちをかえた拷問であるようにも思えた。
ダンは首を横に振り、妄想をわきに追いやる。いま自分がいる島をぐるりと見回した。
起伏はとぼしく、島の中央の丘に向かってなだらかな傾斜が続いている。ところどころに、樹冠の上に頭を突きだした巨木がそびえているほかは、新緑の鮮やかな灌木(かんぼく)の繁みが島の表面を鬱蒼(うっそう)と覆っていた。無数の海鳥が島の上空を旋回し、ときおり海面に向かって急降下していく。波が洗う砂浜には、人魚が思い思いの格好で身体を休めている。ここから遠く、海へと伸びた海岸線の付け根に、砂になかば埋もれた難破船が白茶けた骸骨のような姿をさらしていた。
かつて思い描いていたような、醜悪な人魚でひしめきあう、悪夢のような情景はどこにも見出せない。平穏な、自然の豊かさを感じさせる光景だった。
「ここが……あんたが来たがっていた島なのか?」
「はい。あるひとが教えてくれました。この島でわたしの魂は救われる、と。その意味を、わたしはいま実感しています」
砂浜には軍船の残骸も流れついていた。砕け散った船体の破片が波をかぶり、砂の上を転がっていく。ホッとしたことに、人間の死体はない。人魚が破片を拾い集めていた。漂流物を一箇所に集めて、うず高く積んでいる。まるで死者を弔う墓標のように。
海竜の襲撃を受けたときのことを思いだす。海に落ちると、自分たちを待っていたかのように人魚が集まってきた。そのことを話すと、ティアナの表情が暗く沈んだ。
「人魚がわたしを迎えに来てくれたんです。海竜を呼んだのは彼女たちです。人魚の歌は海中にいるととても遠くまで聞こえます。海竜は人魚の歌に惹かれてあの海域に姿を現したんです。たぶん、わたしたちが殺されそうになっているのを察知して、助けてくれたんでしょう」
ダンはティアナの横にあぐらをかいて座った。ティアナの身体から甘い体臭が立ち昇ってきて、ダンの鼻をぴくつかせた。ティアナの胸で拍動する黒い心臓に注意を向ける──それが心臓であることを、ダンは疑っていなかった。
「ラシーン」
その名を耳にして、ティアナが軽く唇をかみしめる。
「それが、あんたの本当の名前なのか?」