【短編集】人魚の島
海竜が軍船に体当たりする。帆柱が折れた。指揮所の柵につかまって耐えていたジスが、倒れてきた帆柱の下敷きになった。ジスの断末魔の悲鳴がダンの鼓膜を震わせた。
咆哮(ほうこう)する。悪夢がかたちを得たかのような怪物が。太い尾を振り回した。軍船の甲板が、まるで薄く張った氷のようにあっけなく割れた。
ティアナがダンをきつく抱きしめる。さっきから耳元で叫んでいるが、なにを言っているのかさっぱり聞こえない。周囲は阿鼻叫喚の巷(ちまた)と化していた。
海竜が突進する。人間たちが逃げまどう。それを鉤爪と尾でかたっぱしから海にたたき落としていく。
海竜の攻撃を受けて、軍船の船体がまっぷたつに裂けた。
落ちる。傾いた甲板から、海に。ティアナが腕をダンの腰に回して、しっかりとしがみついた。
ふたりとも、海に落ちた。沈む。冷たい海水が身体をまさぐる。息ができない。空気の泡が、そのまま生命の泡沫(うたかた)となって、ダンの肉体から抜けだしていく。
苦しい。手を伸ばす。ティアナを探す。彼女はダンにぴったりと身体をくっつけていた。
ティアナと目が合う。彼女が微笑んだ。自然と自分の頬にも笑みが浮かんだ。
沈む、沈む、沈む。冷たくて暗い、闇の奥のそのまた奥へと。
ふたりの近くにはいろんなものがゆらゆらと漂っていた。人間の残骸。船の破片。壊れた鎖の束。
そのとき──
耳に心地よい、音楽的な声が聞こえてきた。
高く、高く、ときには低く。
軽やかに、なめらかに、そして、たおやかに。
ダンは最後の力を振りしぼって目を開く。
たくさんの影がダンとティアナの周囲でおどっていた。まるで空を飛ぶ鳥のように、身をくねらせて水中を思いのままに舞っている。
歌が聞こえる。澄んだ、透明な歌声。以前にも一度、耳にした、きれいな歌声。
(……人魚……人魚が歌ってる)
ダンの視界に女性の顔が飛びこんでくる。美しい女性だった。金色の長い髪が、彼女の顔の周りで揺らめいている。闇が凝り固まったかのような黒い瞳がダンを見つめている。
女性が微笑む。ダンに寄り添い、彼の唇に自身の唇を重ねてくる。彼女の唇は果物のような甘い味がした。
息が楽になった。苦しくない。活力が全身に戻ってくる。生命のかけらが体内に流れこんでくる──それを実感した。
ティアナが別の複数の女性とたわむれていた。微笑みを浮かべ、肌を重ね合い、互いを抱擁する。あたかも再会を喜んでいるかのように。
ティアナと抱擁を交わす女性たちの下半身は、人間のそれではなかった。ウロコのある魚体──三日月のかたちをした尾びれが水を力強く蹴っている。
数え切れないほどの数の人魚が泳いでいた。人魚の歌が、ひとつの合唱となってダンの聴覚を圧倒する。
高まる人魚の歌に全身を浸し、すべての思いを冷たい海水に溶かしこんでいると──優しい闇がダンをそっと包みこんだ。