【短編集】人魚の島
8
ダンとティアナは軍船に移乗した。乗り移るときにダンの剣は荷物といっしょに没収された。丸腰ではティアナを守ることができない。抵抗しようとすると、ティアナに制止された。はらわたが煮え返る思いで武器を水兵に渡す。水兵がふたりを引き離そうとしたが、それだけは頑として譲らなかった。ティアナの手を放すと、とたんに彼女が消えていなくなってしまうような気がした。
接舷を解くと軍船は大きく回頭し、水平線の上で傾きつつある太陽に向かって帆走を開始した。船名を聞くこともできなかったレガンプ船長の船が見る見る遠ざかっていく。船縁にザッカスの姿があった。こちらを見守っている。ときおり、老人のしゃがれた声が風に乗って届いた。その声もだんだんと間遠になり、波と波のあいだの谷間から抜けだして浮上すると、レガンプ船長の船は海原のどこにも見当たらなかった。
士官に促され、軍船の甲板上を移動する。太い帆柱の下に設けられた一段高い指揮所に、見知った男が悠然と床几(しょうぎ)に腰かけ、ふたりを待ちかまえていた。
ジス。
ふたりを出迎えて獰猛な笑みを浮かべる。
いまのジスは黒い軍服を身にまとっていた。樽の攻撃にやられたときの顔の傷が生々しい。鼻から左の頬にかけて青黒く変色した傷がのたくっていた。左のまぶたも腫れて垂れ下がり、左目の視界をあらかたふさいでいる。
ダンとティアナが指揮所の下に並ぶと、緩慢な動作で床几から腰を上げ、むせるような笑い声をたてた。
ダンはティアナの手をずっと放さなかった。一瞬、挑発的な言葉をジスに投げつけたい衝動に駆られたが、たいして意味のある行動じゃないと思い直し、口を閉じたままにしておく。
ティアナは気丈に顎を上げ、暗闇と同じ色の双眸でジスをにらみつけている。
ジスが指示を出すと、ここまでふたりを連行してきた海軍の士官と水兵は無言で遠くに引きさがった。彼らがジスをどう思っているのかはその顔つきで察しがついた。快く思っていないのは確実だ。仕方なく従っている、という態度がありありだった。海軍の代わりに、ジスと同じ黒い軍服を着た一隊がすばやくふたりを取り巻く。
(こいつらがティアナの言っていた〈カラスの羽〉か……)
ダンは自分たちを取り囲む黒衣の男たちを値踏みした。国王直属の私設部隊──通常の軍隊の指揮命令系統とは異なり、国王の命令のみで動く、独立した機動部隊。ジスはこの部隊の指揮官らしい。傲岸不遜なその態度は、国王から重用されているからだろうか。
ジスが指を鳴らすと、男たちがいっせいに剣を構えた。ダンは歯がみする。敵は圧倒的多数──二十人以上はいるだろう。それなのに、こちらは丸腰だ。
「……余計な手間をかけさせてくれたな」
ふたりを見下ろして、ジスが冷たく言い放つ。ダンはフンと鼻を鳴らす。ジスが足元に置いていたものをおもむろに拾いあげる。弓銃(きゅうじゅう)。遠くから敵を攻撃する武器だ。射程は短いが、至近距離からだと威力が大きい。矢弾を装填し、照準をダンに向ける。
「こいつはさっきのお礼だ」
無造作に引き金を引いた。矢弾が空気を切り裂く。ダンの左の太腿に矢弾が突き立った。
思わず、ダンの口から悲鳴が洩れる。激痛が全身を駆け巡った。
「やめて!」
ティアナが叫ぶ。ダンの手を放し、彼の前に立ちふさがろうとする。ティアナの左腕をギュッとつかみ、彼女が前に出るのを押しとどめた。
「……よせ。おれより前に出るな」
「だって、このままでは……」
「いいから、おれの後ろにいるんだ!」
ダンの気迫に押され、ティアナが彼の背後に回る。苦痛をこらえて、ダンはその場に立ちつくした。ジスをにらむ。心底、他人を殺したいと思ったのはこれが初めてだった。
「お願い! ダンだけは見逃して!」
ティアナがなりふりかまわず懇願する。血を流すダンの姿を目(ま)の当たりにして、余裕がなくなったのだろう。限界まで張りつめた緊張の糸がほころび、目尻からあふれる涙となってティアナの頬を流れ落ちていく。
「……お願い、もうやめて」
「ティアナ、おれのことはかまうな」
ティアナは泣き崩れた。ダンの背中にすがり、子供のように泣きじゃくっている。慰めてあげられない。気休めの言葉も口にできない。それがなによりもつらかった。
「こいつは……」
薄ら笑いを浮かべているジスに向かってツバを吐き、
「おれたちを殺す気だ。あんたが命乞いしたからって、おれだけ助けるはずがねえよ」
「……ダン」
「こいつの気が変わって、おれを殺さなかったとしても……あんたを見殺しにして、おれだけが助かるなんて、そんな屈辱、死んでもイヤだ」
「だったら、いますぐ死にたまえ」
矢弾が飛んできた。よけられない。よければティアナに命中する。へその右下に二本目の矢が突き刺さる。ダンはたたらを踏んだ。踏ん張って、持ちこたえる。
ティアナが悲鳴をあげる。その悲鳴を押しのけて、三本目の矢が放たれた。
ダンはくるりと身体の向きをかえ、ティアナをかばってしゃがみこむ。背中に矢がめりこむ。
四本目。今度は左の肩甲骨を打ち抜いた。
ダンの足元に血溜まりが広がっていく。身動きできなかった。痛みすらも昇華されて、遠い感覚になっている。
(最後まで……あんたを守ってみせるよ……ティアナ)
「やめて! やめて! やめて!」
ティアナが半狂乱になっている。
ジスが楽しそうな笑い声をあげた。つられて、周囲にいる男たちが低い笑い声を洩らす。
「その男は何本目の矢で死ぬだろうな? 私と賭けをしてみないか、ラシーン殿下? それともティアナ殿下とお呼びしたほうがいいかな?」
「その名を……おまえがその名を口にしないで!」
ダンはうっすらと目を開け、涙でクシャクシャになったティアナの顔を間近でのぞきこんだ。ティアナが抱きついてくる。かぐわしい香水の香り。いまは自分自身の血のにおいが濃い。そして、ティアナの甘い体臭……。
(ラシーンだって……あんたはこの国の第二王女なのか、ティアナ?)
その問いかけを言葉にすることはできなかった。
突如として、船体が大きく揺れた。なにかが激しくぶつかる大きな音。木材の折れる音がそれに続く。
衝撃が立て続けに下から突きあげてくる。倒れこむダンの身体をティアナが必死になって支える。背後でジスが叫んでいる。状況がつかめず、混乱しているようだ。
やがて──
「なんだ、あれは!」
誰かが叫んだ。多くの口から驚きの喚声がわき起こる。悲鳴が渦巻いた。雷が落ちたような衝撃が何度も船体をつらぬく。甲板が傾いた。
朦朧(もうろう)とした頭を振って、混乱の原因を見定めようとした。
すぐそばでティアナが息をあえがせる。
ダンは自分の目が信じられなかった。
とてつもなく大きな影が海面から立ちあがっていた。銀色のウロコに覆われた体表。人間をやすやすと切り裂く巨大な鉤爪。ぱっくりと開いたあぎとの奥に並ぶ鋭い牙の列。縦長の黒い瞳孔がギョロリと動いて、右往左往する人間たちを睥睨(へいげい)する。
「海竜だ!」
そう叫んだ水兵が次の瞬間、ばかでかい鉤爪になぎ払われて、絶叫をあげながら海に落ちた。