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【短編集】人魚の島

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 ダンは椅子から腰を上げ、ドアを開けた。ひどく取り乱した様子の老人が廊下に立っていた。顔が真っ赤だ。酔っているだけではなさそうな雰囲気だった。
「先生? なにごとですか?」
「軍船がおまえさんたちを追いかけてきたぞ!」
「え?」
「すぐに追いつかれる。いますぐ逃げろ! 早く!」
 ザッカスが切羽詰まった調子でうったえる。ただごとじゃない。それ以上、問いを重ねることなく、ダンは室内に取って返すとティアナの手をつかみ、立たせた。荷物をまとめるよう、指示する。
「……ダン?」
「軍船がおれたちをつかまえにきたらしい。ここにいたら危険だ。すぐに逃げよう」
 ダンは剣を腰に帯びる。荷物を背負った。体調は万全じゃない。それでも、自分の仕事を放棄するつもりはさらさらなかった。
「逃げようって……ここは海の上ですよ? どこへ逃げるんですか?」
「海のど真ん中で船を降りて、ボートで〈人魚の島〉を目指す計画を立てていたのは、どこのどいつだ?」
「あれはちゃんと目算があって……」
「議論してる時間はねえんだ。行くぞ!」
 強引にティアナの手を引く。ティアナは抵抗せず、おとなしくついてきた。
 廊下でザッカスが、イライラと足を踏み鳴らしながらふたりを待っていた。ティアナが部屋から出てくると、老人は血走った目を大きく見開き、枯れ木のような腕を振り回した。
「船尾にボートがある。それを使うんじゃ。潮に乗ればいずれは陸地にたどりつく」
 どこかで聞いたことがあるようなその脱出計画に、ダンは思わずニヤついてしまう。ティアナは澄ました顔をして、何度も首を縦に振っている。
「こっちだ。急げ」
 ザッカスが先頭に立って歩きだす。船尾のボートにたどりつくにはいったん、甲板に出なくはならない。階段を昇って、下甲板から上の甲板に出る。甲板を五歩ほど歩いたところでザッカスがいきなり立ち止まった。機嫌の悪い猛獣のようなうなり声を洩らす。老人は左舷の方角に顔を向けていた。
 老船医の動きを止めたものがなんなのか、ダンにもすぐにわかった。船縁のすぐ向こうに、暗緑色に塗装された優美な船体が浮かんでいる。帆柱のてっぺんにひるがえる三角形の海軍旗──深紅の地に紺碧の双頭のドラゴンをあしらったその意匠は、〈暁の王国〉の海軍のものだ。軍船の甲板に立ち並ぶ水兵の姿がここからでもよく見えた。白地に金を配した軍服の海軍士官の号令のもと、一糸乱れぬ動きで操船している。
 ザッカスがものすごい勢いで悪態をつきはじめた。悪声を枯らして軍船に怒鳴り散らす。ダンはティアナの手をにぎる自分の手に力をこめた。ティアナは呆然自失の体(てい)で軍船をながめている。
「ティアナ、おれのそばから離れるな」
 ティアナが手をにぎり返してきた。震えている。ダンはますます強くにぎった。
「おれがあんたを守る」
「ダン、あなたにはこれ以上……」
「なにも言うな。自由傭兵は死んでも契約を守るもんだ」
 ティアナが深い吐息をつく。にぎりしめた手から彼女の体温を感じた。温かい。とても。
 船尾楼から、五人の船員を後ろに従えたレガンプ船長が出てきた。緊張した面持ち。足を止め、まだわめき続けているザッカス、ダン、ティアナ──最後に、左舷から急速に接近してくる軍船を順繰りに見やる。海神の御名をつぶやいて印を切り、大声で号令を発した。甲板にいる船員たちがてきぱきと動いて、舷側の格納場所から渡し板を次々に取りだしていく。軍船と接舷する準備をしているのだろう。
 レガンプが近寄ってくると、ようやくザッカスの悪口雑言が止まった。
「あの軍船からさっき手旗信号が届いた」
 レガンプはダンとティアナのふたりに向かって、
「あんたらの身柄をよこせ、と要求してる」
「船長、あのクソな連中にこのふたりを引き渡すつもりなのか?」
「おれにどうしろというんだ、先生? この船の船足じゃとても逃げられんよ」
 ザッカスが盛大に鼻を鳴らす。レガンプが正しいとわかっているのだろう。反論はしなかった。それでも、いまいましく思う気持ちは消えないようで、海神を呪う罰当たりな言葉を吐き、ダウセル三世を罵倒する不敬な言葉を垂れ流した。
「あんたらとは乗船交渉がまだだったな」
 レガンプが苦笑を浮かべる。ダンは曖昧にうなずいた。ふたりの、しっかりとつないだ手を目にして、船長の顔がほころんだ。
「まあ、いいさ。無賃乗船する密航者には慣れてる。かくいうおれも最初はそうだったからな」
 レガンプは頬を緩めて笑顔をつくる。ダンはどんな顔をしていいのか、よくわからなかった。迷惑をかけたことをわびるべきなのかもしれないが、うまく言葉が出てこない。代わりにティアナが謝罪を口にする。
「レガンプ船長……たいへんなご迷惑をおかけしました。お許しください」
 ティアナが頭を下げる。レガンプはため息をつく。ティアナをまっすぐに見つめて、
「お嬢さん、あなたが何者なのか、おれにはある確信があるんだが……それは言わないでおこう。迷惑だなんて、とんでもない。あなたに会えてよかったよ」
 腹の底から響く重い音が船体を揺らした。軍船から放りこまれた十本以上の鉤爪つきのロープが、こちらの船の舷側をがっちりと押さえこむ。ロープを固定すると、ふたつの船のあいだに渡し板が渡された。武装した水兵を連れた士官が乗りこんできた。
 険しい顔つきで歩み寄ってくる士官と水兵の一団をダンはにらみつけた。
 ザッカスがダンの隣に並び、断固とした口調でささやいた。
「いいか、ワシの言ったことを忘れるんじゃないぞ……」
 ダンはうなずく。
 忘れたりしない。絶対に。最後の最後まで。

作品名:【短編集】人魚の島 作家名:那由他