【短編集】人魚の島
「国王の使節船を沈めたのは〈風の帝国〉の反皇帝派だ、という噂もあるんだ。例の、和平交渉に反対してる好戦的な連中だよ。そいつらが裏で海賊を動かして使節船を襲撃したんじゃないか、って。船を沈めたのは反皇帝派の仕業だと国王は思ってる。だから、東部で兵力を集めたあと、〈精霊の海〉を渡って〈風の帝国〉の本土に……」
大きな音がした。音がしたほうへ顔を向けると、ティアナの手のなかで白リンゴがまっぷたつに割れていた。銀髪の少女の、きれいなかたちの眉が逆立っている。怒っているみたいだ。どうしてなのかは知らないが。
「ティアナ?」
「ダンは戦争が起きてほしいと思ってるんですか?」
「え?」
給仕の娘にしつこく呼ばれて、オヤジがテーブルとテーブルのあいだの隙間を泳いでいく。吟遊詩人の下手くそな歌が終わり、店内のざわめきが一気に押し寄せてきた。
ダンは食べ終わった皿を押しやり、乳酪酒の入った木杯を口に運んだ。白く濁った甘酸っぱい液体は、すっきりとした清涼感を口に残しつつ、ダンの喉をとおりすぎていく。
「……だって、戦争がないとおれの仕事もねえんだぜ?」
「戦争のことなんて、なにも知らないくせに!」
ティアナが大きな声を出す。なにごとか、と酒を呑んでいた荒くれ男たちの視線がこちらに集中する。店のなかが一瞬、水を打ったようにシンと静まり返った。
ダンは唖然とした。なにも言葉を返せない。
ティアナが席を立つ。割れたリンゴはそのままに、スタスタと早足で歩いてテーブルを離れていった。
店に活気が戻る。痴話ゲンカとかんちがいした男たちからダンをからかう下品な声が飛ぶ。なにを思ったのか、吟遊詩人が失恋の歌を歌い始めた。
オヤジが血相をかえてテーブルにつめ寄ってきた。
「おまえ、あのお嬢さんになにを言ったんだ!」
「いや……おれはなにも……」
口に含んだ乳酪酒の味は、さっきとはうってかわって、ひどく味気ないものに感じられた。
真夜中に目が覚めた。
灯を落とした室内。窓から斜めに差しこむ銀色の月光。天井と壁の境目にわだかまる闇のかけら。
聞こえた。声が。
ハッとして寝台に起きあがる。耳を澄ませた。
空耳なんかではない。確かに、聞こえた。男と女の叫び声。
窓に飛びつく。それが開くものだとは、実際にやってみるまで知らなかった。ガラスの下の縁に指をかけ、押したり引いたりしていると、上に持ちあがった。そのまま力任せに窓を開ける。
冷たい風が吹きこんできた。塩辛い磯の香り。なにかが燃える、焦げ臭いにおいが空気にまといつく。
窓から上半身を乗りだす。海岸まで段差になった屋根の並びと、その向こうに広がる海面が見渡せた。
ここから数百歩ほどのところの、波が打ち寄せる砂浜にひとがたくさん集まっている。篝火(かがりび)の金色の炎が風にあおられて、ゆらゆらと揺れていた。距離がありすぎてなにを言っているのかは聞こえないが、砂浜にいる老若男女の全員が海に向かって大声で叫んでいる。
そのとき、澄んだ歌声が風に乗って届いてきた。
高く、高く、ときには低く、長々と余韻(よいん)を引き、夜闇をつらぬいて響く。
沖合でなにかが動いていた。闇に沈んだ銀色の海面──白く泡立つ波頭の谷間で、いくつもの小さな影が月の光を浴びて飛び跳ねている。
ダンは悟る。あれは人魚だ、と。
夢中になって海をながめた。海から近い場所に住んでいたものの、人魚を目撃したのは生まれて初めてだった。
人魚が歌っている。
いつまでも耳に残る、澄みきった歌声。いつまでも聞いていたい、透きとおった歌声。
(こんなきれいな歌声……聞いたことがねえな)
人魚の歌は、食堂で歌っていた吟遊詩人とはくらべものにならなかった。ダンの全身の肌が粟立(あわだ)つ。人魚の歌声を聞いていると、光の届かない暗闇のなかの、いずこともしれない奥底まで引きずりこまれそうな気がした。
どのくらいのあいだ、人魚の歌声に耳を傾けていたのだろうか。
ふと気がつくと、歌声はやんでいた。
あわてて海面に目を凝らす。人魚はいなくなっていた。
砂浜に陣取った群衆が罵声を張りあげている。どうやら人魚たちを呪っているようだ。
視野の端に動きを感じて、目線を右に転じる。ふたつ隣の部屋──その窓からティアナが頭を突きだしていた。泣いている──ように見えた。月の明かりだけでは暗くてはっきりしない。ダンに気づいたのか、ティアナの頭がスッと引っこむ。それっきり、彼女は姿を現さなかった。
(泣いてたのか? どうして……)
窓を閉め、寝台に戻る。
なかなか寝つけず、何度も寝返りを打ったすえに落ちていった不快な眠りは、内容も憶えていない、ほの暗い夢をダンにもたらした。