【短編集】人魚の島
ティアナはウソをついている、とダンは確信していた。自分の身分を偽っている。貴族のお姫さまであることは本当なのだろう。けれども、彼女が口にした地方領主というのは実在するのだろうか。
ティアナを無条件に信じることはできない。それでも、彼女を守ってあげたい、とは思う。強気で、ちょっと高飛車なところがあるが、彼女にはダンの保護欲をそそる、言葉では言い表せない不思議な魅力が備わっていた。
(そんな気持ちになるのは、ティアナの裸を見たからか?)
風呂場で目に焼きつけた、ティアナの白い裸身が脳裏にちらつく。連鎖反応を起こした妄想が、空気の泡のように心の表層に浮かびあがってくる。
──なんだか自分自身さえも信じられなくなりそうだった。
長嘆息。
もう一度、風呂に入ろうと思い直し、きびすを返す。
夕飯にはまだ少し時間があるからちょうどいいだろう、と呑気に考えていたら、あにはからんや、浴場はむさくるしい裸の男でいっぱいだった。
傷だらけの肌の下で筋肉の束がムキムキと盛りあがる。あたりをはばからない胴間声(どうまごえ)が飛び交う。男たちの体臭と質の悪い石鹸の酸っぱいにおいが同時に襲いかかってくる。
もちろん、その場にあの銀髪の美少女の姿はない。
悪夢のようなその光景は、しばらくのあいだ、ティアナに対する不満を遠ざける効果があった。
夕食をとりに一階へ降りていくと、階段のすぐ下のテーブルにティアナがいた。頬杖をついて、所在なげに視線を宙に泳がせている。心ここにあらず、といった体(てい)だ。
声をかける。ダンに気づいたティアナが笑みを浮かべる。どこか力のない微笑。
居酒屋の営業はまだ始まったばかりで客は少ない。テーブルはたくさん空いていた。
ティアナの真向かいの席につくのをためらっていると、彼女のほうから手招きして、自分のテーブルに呼んでくれた。
「……考えてくれましたか?」
ティアナの第一声がそれだった。むろん、彼女がなにを言っているのかは察しがつく。
ダンは椅子に腰をおろしながら、
「ごめん。まだ返事はできない」
ティアナが目を細める。夜闇を溶かしたような黒い瞳がダンを射抜いた。
「……あんたの目」
「え?」
「珍しいな、黒いっていうのは。おれは初めて見たよ」
〈暁の王国〉も〈風の帝国〉も、瞳の色は褐色か緑色という人間が多い。ダン自身も瞳の色は褐色だ。たまに紅瞳とよばれる真っ赤な目という人間もいるが、黒い瞳というのはこれまで見たことがなかった。流暢にこの国の言葉を話しているが、ティアナは遠い異国の人間なのかもしれない。
「……生まれつきです。別に病気なんかではありません」
「へえ、そうかい」
テーブルとテーブルのあいだを渡り歩いている給仕の娘にむかって手を振る。テーブルに近寄ってきた娘に、ダンは注文を告げる。
「あんたはどうする?」
「わたしはもう頼んでいますから」
給仕の娘がテーブルを離れると、ティアナは声を落としてささやくように言った。
「明日の朝までには態度を決めておいてください。わたしは明日の朝、この宿を発ちます」
「おれが断ったら、ひとりで出発するつもりか?」
「それもしかたないでしょう。わたしにはあまり時間がないんです」
「時間がない? どういうことだよ、それ?」
「とにかく、ここでゆっくりと過ごしている時間はないのです」
ティアナの発言を頭のなかで反芻していると、ふたりの料理が同時にテーブルに届けられた。ダンが注文したのは香草で包んで焼いた三角魚と雑穀のスープ、口当たりのよい乳酪酒のセット。ティアナの料理は根菜のスープ、魚卵と野菜の煮物、白リンゴだった。
黙々と食べる。ダンも、ティアナも、ひと言も言葉を交わさなかった。空気が重苦しい。そう感じるのは店内の奥座敷に居座る吟遊詩人の歌が、聞くにたえないほど下手だからか。
影が差した。上目遣いでうかがうと、居酒屋と宿屋を経営するオヤジの、クリクリとよく動く小さな目とぶつかった。
「昼間はさんざんだったな、坊や」
と、太り気味の体型からはちょっと想像しにくい、女のような高い声で、オヤジ。
坊や、と呼ばれても怒る気になれなかった。他人の目から見ればそういう評価になるのだろう、と思う。なにせ、金果酒をあたり一面にぶちまけてしまったのだから。
ダンが答えないでいると、オヤジの関心は、根菜のスープを匙で口に運ぶティアナへと向けられた。
「お嬢さんもたいへんな目にあいましたね。こいつ、重かったでしょ?」
ダンはかぶりついていた魚からおもてをあげた。頭のなかでパズルのピースがカチリとはまる。目を丸くした。
「……まさか、おれを部屋まで運んでくれたのはあんただったのか?」
ティアナはおっとりと微笑んだ。匙を置き、白リンゴの薄い皮を爪で器用にむいていく。
「あなたに肩を貸しただけです。あなたはちゃんと自分の足で歩いていましたよ」
ウソだ、と反論しようとして、すんでのところで言葉を飲みこむ。泥酔した男を二階まで運びあげる腕力がティアナにあるとは思えない。野良仕事もこなす農婦ならいざしらず、彼女はやんごとなき貴族の令嬢なのだ。
(ホントにおれは自分の足で歩いたのか? あの状態で?)
「で、坊やはこれからどうするんだ?」
オヤジの矛先がダンに戻る。ダンは目をしばたたいた。
「……東部に向かおうと思ってるよ。あそこなら、おれを雇ってくれる騎士団があるかもしれないから」
「どうして東部へ?」
という質問をしたのはオヤジではなく、ティアナだった。白リンゴのみずみずしい真っ白な果肉に小さな歯を立てる。果実の甘いにおいと、ティアナの香水のにおいが、よどんだ重い空気をかき混ぜた。
「これから戦争が起こるかもしれないからだ」
むっつりとダンが答えると、白リンゴの果肉をかむティアナの顎の動きが止まった。小首をかしげ、ダンをじっと見つめる。
ダンは食事を再開する。口のなかは食べ物でいっぱいだったが、礼儀作法に頓着するつもりはなかったから、食べながら話した。
「一旬日前、国王の使節を乗せた船が〈嘆きの岬〉の沖合で沈んだそうだ。その船は〈風の帝国〉に向かってたらしい」
ダンは同じ養成所出身の自由傭兵から聞きかじった情報を開陳する。真偽のほどは定かではないが、ある程度確実な情報としてそれは口の端(は)にのぼっていた。
「噂では、〈気高き未亡人の島〉の領有をめぐる紛争の和平交渉をするはずだった、とか……」
「あれか、和平のあかしにラシーン姫がタヌキに嫁ぐとかなんとか、そういったやつだな」
オヤジが相槌を打つ。ダンはうなずく。
〈暁の王国〉を治める国王、ダウセル三世──その第二王女であるラシーンと、この国の国民からはタヌキと陰口をたたかれる〈風の帝国〉の皇太子、ボルグ皇子との結婚のハナシは以前からあった。特に、ダウセル三世の弟であるガラムド大公が、血のつながりを通じた〈風の帝国〉との同盟を強く主張していた。それが急速に現実味を帯び始めたのは、両大国のあいだの紛争がだんだんと下火になってきて、ふたりの結婚の障害となるような懸案がなくなったからである。
が、しかし──