【短編集】人魚の島
4
示し合せたわけではないが、翌朝、一階の食堂へ足を運ぶと、階段の下のテーブル席にティアナがちょこなんと腰かけていた。
おはよう、と声をかけると、気のない返事が返ってくる。よく眠れなかったのか、ティアナの目の下にはうっすらと紫色のクマができていた。
ティアナの対面の席につく。今日の彼女は、花の香りに混じって薬草の乾いたにおいがした。しかも、近くにいるとむせ返るほどに、においがきつい。
「昨日はごめんなさい」
ティアナが軽く頭を下げる。突然の謝罪だった。意味がわからず、ダンはきょとんとする。
「その……わけもなく怒鳴ったりして。ダンは自由傭兵だから、戦うのが仕事ですよね。戦うことで生活の糧(かて)を得るんですから、戦争がないと困るのも当然です。わたしの考えが足りませんでした」
「あ、いや。おれは別に気にしてねえから……」
ティアナはにっこりと微笑む。心が温まるような笑みだった。
店内は朝早い時間にもかかわらず混雑していた。興奮した口調でしゃべっているのは、身なりからすると地元の漁師たちらしい。なんとはなしに聞いていると、もっぱらの話題は昨夜、出現した人魚のようだ。さかんに海神の御名を口にして、魔除けの印を切る。
給仕の娘を呼ぶ。八重歯をのぞかせて愛想笑いを浮かべる娘に、ダンはぶっきらぼうな口調で尋ねた。
「あんたも人魚を見たか?」
とたんに娘が渋面をつくる。腰を折り、小声になって、
「ということは、お客さんも見たのね?」
「ああ」「ええ」
と、ダンとティアナのふたりが同時に答える。ダンが横目でチラリとうかがうと、ティアナは痛みをこらえているような顔つきをしていた。
あいかわらず小さな声で、娘がダンの耳元にささやいた。
「魔除けの印、切っておいたほうがいいよ。人魚の歌声を聞いたら不幸になるっていうからね」
「不幸になる? そうなのか?」
「だって、あいつらは化け物だもん。ものすごい力で人間を海中に引きずりこんで溺れさせるんだよ?」
「それって言い伝えだろ?」
「違うよ、お客さん。この町には親戚を人魚に殺されたひとだっているんだからね。ウソじゃないよ」
ダンは、口角泡を飛ばしてがなりたてている漁師たちに顎をしゃくり、
「ひょっとしたら、あいつらのことか?」
「ああ、あのひとたちは海に出ていくことが多いからね。人魚に漁をジャマされることもあるんだって。海に落ちて溺れ死んだひとも……」
「人魚は憎まれてるんですね」
ティアナがポツリとつぶやく。娘は目をパチクリさせた。
「あたりまえじゃない! 化け物を好きになる人間なんか、いないよ」
「そうですね。あなたの言うとおりです。人魚は……化け物ですから」
娘は薄い眉をひそめた。さらになにか言い募ろうとしたとき、オヤジの怒鳴り声が背後から飛んできて、いそいそと立ち去っていく。
朝食を注文しそこねたことに気づいて、後ろを振り向いた。娘の姿は消えていた。オヤジも声はすれど、あの脂ぎった肥満体はどこにも見当たらない。
「ダン」
決して大きくはないが、よくとおる声で名前を呼ばれ、ダンは椅子のなかで居住まいを正す。ティアナの黒い瞳が憂いの色を帯びていた。どこか悲しげで、切なげな顔。ダンは奥歯をかみしめる。胸の奥にチクリと痛みを感じた。
「あなたの返事を聞かせてください。わたしの護衛を引き受けてくれますか?」
「そのまえにひとつだけ、答えてくれ」
「なんでしょう?」
「昨夜、人魚が歌ってたとき……あんたは泣いてたのか?」
どうしてそんな質問をしたのか、自分でもよくわからなかった。確かめたかったのかもしれない。ティアナが正直に話してくれるのかどうか、を。
ティアナは即答しなかった。壁に釘で打ちつけられた木版画をぼんやりとながめている。ダンは彼女の視線の先を追う。
偶然なのだろうか。淡い褐色の顔料で描かれたその木版画は、漁師と人魚の戦いの場面を素材としたものだった。
荒れ狂う海。波に翻弄される小型の漁船。船縁にしがみつき、おびえた表情を見せる漁師たち。漁船に群がり、人間を海中に引きずりこもうと腕を伸ばす醜い怪物──人魚たち。
醜い。そんな形容詞しか、思い浮かばなかった。
頭には鋭くとがったツノがあり、口は耳元まで裂けている。上半身は人間の女の身体だ。しなびた乳房が申し訳程度に胸にこびりついていた。下半身はトゲのあるウロコに覆われた魚体。その醜悪な容姿は、昨夜、耳にした澄んだ歌声の持ち主とはとても思えなかった。
漁師のなかでただひとり、船首に立ち、手にした銛(もり)で人魚に立ち向かっている男がいた。銛につらぬかれた人魚が苦痛にのけぞっている。牙をむき、鉤爪のついた手を天に伸ばして。
みぞおちに冷たいものを感じた。人魚──こんな怪物が何百、何千と群がる島にティアナは行こうとしている。正気の沙汰じゃない。わざわざ殺されに行くようなものだ。
(もしかしたら、ティアナは……死にたいのか?)
ダンの思いが読めるはずもないのに、ティアナは小さくかぶりを振り、顎の下で細い指を組んだ。ややあって、銀髪の少女はダンの問いかけに答えた。
「泣いていました。わたしには彼女たちの歌声が鎮魂歌(レクイエム)に聞こえたのです。海で命を落としたひとたちの魂を歌で慰めている……わたしにはそのように聞こえました」
(そんなふうに思うのは、あんたが大事な誰かを海で亡くしたからか、ティアナ?)
口許まで出かかった言葉を喉の奥へ押し戻し、ダンは背筋を伸ばす。
(死ぬかもしれねえ。いや、まず確実に生きて還ってこれねえだろう。おれも、ティアナも。そうだとしても、おれは……)
胸のうちを探る。答えは、そこにあった。
この気持ち。
ティアナのそばにいたい、と思う気持ち。
おのれの剣で守ってあげられるのならティアナを守ってやりたい、と望む気持ち。
そして──なによりもティアナに死んでほしくない、と願う気持ち。
信じてあげたい。たとえ、ティアナが自分のことを信じられなくても、そのうちに信じてくれる、と思いたい。
(ダメだ。ティアナをこのままひとりで行かせられねえ。そんなことをしたら、おれは一生、後悔する。クソ、底なしのバカだ、おれは……)
吐息をつく。自分は戦場で死ねないような気がした。
「……わかった。あんたの護衛を引き受ける」
ダンの放った低いつぶやきにティアナが反応するまで、数秒の時間が必要だった。
「ダン? いま、なんて?」
「あんたの護衛を引き受ける、って言ったんだ」
「……本当ですか?」
「自由傭兵に二言はない」
きっぱりと、ダン。一度、言ってみたかったセリフだ。
ティアナの顔がほころぶ。テーブル越しに腕を伸ばして、ダンのこぶしに自分の手を重ねる。
「ありがとう、ダン。ありがとう……」
ティアナのうれしそうな笑顔を目にして、ダンは心臓の鼓動が速まるのを感じる。顔が熱くなってきた。耳の奥で熱を帯びた血潮がドクドクと脈打っている。あわててうつむき、股ぐらのあいだに自分のこぶしを押しこむ。それをひたすら注視した。