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【短編集】人魚の島

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「……へ?」
 あまりにもとうとつな申し出にダンは二の句が継げない。
「一階の居酒屋であなたが食事をしていたとき、すぐそばにわたしがいたのを憶えていますか?」
 ティアナと名乗った少女が腰をかがめてダンの顔をのぞきこむ。大きく開いた襟ぐりの奥に、胸の深い谷間が一望できた。優雅なふたつの曲線と……そのあいだの谷底にひそむ黒っぽいものは……さきほど風呂場でも目にした宝石だろうか?
 マズい。ティアナの顔から目をそらしたら、いろんなものが見えてしまう。いや、それはそれで眼福なのだが、彼女に気づかれたときの報復は肘鉄なんかじゃ済まなくなるかもしれない。
 ダンは顎を上げてティアナの顔だけを見据える。下を見ないように気をつけた。
 ティアナは真剣な顔つきでダンの返事を待っている。ダンはツバを飲みこむ。喉がひりついて、かすれた声しか出てこない。
「……ああ、あんたのことは憶えてるよ」
「わたしの護衛を頼める自由傭兵を探してたんです。できれば、若くて、まだ経験の浅いひとを」
「なぜだ?」
 ダンは眉をひそめる。自分が彼女の条件に合致しているのは、そのとおりだと思う。悔しいけれど、経験に乏しい──それどころか、傭兵としてはまったくの駆けだしだ──のはまぎれもない事実だ。だから、単独で雇ってもらえるとは最初から期待していない。数十人、数百人単位のまとまった契約のなかに自分も含めてもらえればそれでいい、と考えていた。それなのに、ティアナは単独の護衛役を自分に求めている。解せない。
「護衛に選ぶんだったら、もっと腕のたつ傭兵を雇うべきだろう。おれは……白状しちまうと、養成所を出たばかりで、まだ仕事をしたことすらねえんだぜ?」
「熟練の傭兵は、わたしの行きたい場所までついてきてくれません。そこは……人間が近寄ってはいけない場所なんです。いくらおカネを積んでも、拒否されるでしょう」
 ダンは押し黙る。ティアナをじっと見つめる。彼女も等圧力の視線を返してきた。
「どこなんだ、あんたが行きたい場所っていうのは?」
 ティアナは、つと目をそらした。自嘲気味の薄い微笑が彼女の口許に浮かぶ。豊かな銀髪の房に指をすべらせ、くるくると指先で巻いてもてあそんだ。
「そこは〈人魚の島〉と呼ばれています」
 ダンは息をつまらせる。顔面から血の気が引くのをまざまざと感じた。
「すべての人魚が生まれるところ……そういう言い伝えがある島です」

 宿屋には中庭があった。正確には、建物の壁に囲まれた、いびつなかたちの空間だ。
 宿泊客の憩いの場にするつもりだったら、たとえば四季おりおりの花を植えるとか、小さいながらも東屋(あずまや)を建てるとか、風雅な演出をしそうなものだが、凸凹に切り取られた空間にそんな付属物はいっさい存在しない。土はむきだしのままで、舗装もなかった。ただの空き地、というのが正しい表現だろう。
 それでも、木刀を振り回して素振りをするだけの余地は残されている。
 ようやく風呂に入ってさっぱりとしたダンは、使いこんだ木刀を持って中庭にやってきた。陽が傾きかけている。木塀の向こうの通りから、さまざまな雑音がこぼれ落ちてくる。走り回る音、叫び声、怒声、女の金切り声、馬のひづめが土を踏む音、魚を売る行商人の呼び声、騎兵隊の号令、子供たちのはしゃぐ声、遠い潮騒(しおさい)。
 風が、そよぐ。潮の香りが空気に濃い。香辛料のいいにおいがどこからか漂ってくる。
 中庭には誰もいなかった。二階の窓から身を乗りだして外の景色をながめていた髭面の男がダンを見下ろし、ニヤリとする。
 足が汚れるのも気にせず、素足で中庭の真ん中に立ち、木刀を構える。
 自然と身体が流れた。水辺に立つツルの構え、軒先を飛ぶツバメの構え、獲物を狙うタカの構え。木刀が空を切り、ダンの視界のなかで残像が揺れる。繰り返した。養成所でたたきこまれた基本的な構えを。
 素振りをしながら考える。ティアナの望みはなんなのだろう、と。
 ティアナへの返事は保留していた。いくらダンが駆けだしの自由傭兵で、雇い主がいないといっても、〈人魚の島〉へ渡航するのはさすがにためらわれた。ティアナはダンが生還できることを保証していたが、それになんの根拠があるのか、彼女自身にもうまく説明できない様子だった。つまり、生きて還れる見込みはほとんどない、ということだ。
 〈風の帝国〉とこの国──〈暁の王国〉とのあいだに横たわる、三日月のかたちをした細長い内海、〈精霊の海〉。〈人魚の島〉は〈精霊の海〉のちょうど真ん中に位置している。〈風の帝国〉も〈暁の王国〉もこの島を領土としていない。それには理由があった。
 〈人魚の島〉は別名、〈呪われた島〉とも呼ばれている。世界を滅ぼそうとした魔神の魔城がそびえたっていた、という伝説があるのだ。その伝説は別にしても、あの島に渡ろうと思う酔狂な人間はいない。〈精霊の海〉に浮かぶその孤島は、その名のとおり、人魚たちの土地だ。人魚は魔神がつくりだした妖異だという。大の男でもかなわない強い力と鋭くとがった鉤爪で人間を海中に引きずりこみ、溺死させる、半人半魚の怪物──海では海竜と同じぐらい、危険な存在だ。そんな人魚が無数に巣食う島に行きたいと思う人間がはたしているのだろうか。
 〈人魚の島〉へ行きたい理由を尋ねても、ティアナは首を横に振るばかりで教えてくれなかった。彼女なりの、どうしてもそこへ行かなければならない理由があるのだろう。それを教えてくれないのはなぜなのか。
 ダンは憤慨する。彼には信条があった。雇い主を信用するのと同じ程度に、雇い主も自分のことを信用してくれなくちゃ困る──仕事をするからには、そうした信頼関係が不可欠だと思っていた。その気持ちはいまも変わっていない。
 それなのに──
(ティアナはおれのことを信用してねえんだ。理由を教えてくれないのは、おれのことが信じられねえからだろう)
 そんな状態で、どうしてティアナを守ってやれるというのか。こちらは命を張って仕事をするというのに……。
 水に飛びこむカワセミの構え、空から舞い降りるワシの構え、最後に、屋根にとまるカラスの構え。
 素振りを終えると、全身に汗をたっぷりとかいていた。跳ねあげた泥が腹にまで飛び散っている。肩をグルグルと回し、呼吸を整える。
 いつの間にか陽は暮れていた。残照が頭上の狭い空を赤黒く染めている。二階の窓に髭面の男の姿はすでにない。街の騒音もしだいに小さくなってきている。
 それに、とダンは思う。ティアナは何者なのだろうか。
 ダンがそれを問うたとき、地方領主の娘です、とティアナは答えた。なるほど、彼女の身振りや言葉遣いなどから、平民の出ではないだろうと思っていた。ティアナの話すアクセントや語彙がダンの耳になじまないのは、彼女が貴族階級の出身だからなのだろう。だからこそ、よけいに疑問が生じる。そんなお嬢さまが従者も連れず、こんな汚い宿屋でなにをしているのか、と。
 ティアナはなにも答えなかった。問いつめると顔を真っ赤にして黙りこむので、それ以上の追及はできなかった。
作品名:【短編集】人魚の島 作家名:那由他