【短編集】人魚の島
2
つまらない見栄なんか張るもんじゃない。なんの得にもならないからな。
たぶん、口さがない父親が息子に向かって垂れた処世訓だったはずだが、記憶が定かではない。
もしかしたら、幼いころに死んだ祖父の遺言だったかもしれない。あるいは、いつも悪態ばかりついていた母親の、右から左へと聞き流していた罵詈雑言(ばりぞうごん)の一部か。
強い男に見られたい、という一心で金果酒を注文したのがそもそものまちがいだった。
周囲のテーブルに座る男たちはみな、金果酒をあおっていた。誰もがひと目でそれとわかる、がっちりとした体格の、浅黒く陽に焼けた自由傭兵ばかりだ。なかにはダンとさして歳のかわらない少年もいる。
(こいつらに呑めるんだったら、おれだって……)
居酒屋のオヤジがうろんな目つきで、金果酒を満たした木杯をダンのテーブルに置く。オヤジの小さな丸い目があからさまに挑発していた。おまえみたいなガキにこの酒が呑めるのか、と。
ダンはオヤジをにらみ返す。テーブルに置かれた、てのひらにすっぽりと収まるサイズの、傷だらけの木杯を右手でつかむ。鼻にツンとくる刺激臭。木杯の縁ギリギリまで注がれた、琥珀色の透きとおった液体。
銀果酒はすでに経験済みだった。酒精の濃度はかなり高いが、それでもむせることなく、一杯を飲み干せた。
だが、金果酒に含まれる酒精の含量は、ダンの想像をはるかに超えていた。おまけに、この酒は体質的に合わない人間が呑むと急性の中毒症状を起こす。が、体質的に合わないかどうかは呑んでみないとわからない。
意を決して杯に口をつけ、一気に傾ける。甘辛い液体がダンの喉を焦がし、食道を焼き、胃のなかで沸騰して──とたんに彼の五感を麻痺させた。
ついさっき食べたばかりの昼食といっしょに酒を勢いよく吐き戻したところまでは憶えている。オヤジの怒鳴り声や、自由傭兵たちの悪意のこもった嘲笑と足を踏み鳴らす音も。
斜め前のテーブルにいた少女の甲高い声が、ダンの注意を惹いた。少女の声には聞き慣れない妙な訛(なま)りがあった。
彼女の顔をよく見ようと、振り向いたが──実際は、そのままテーブルに突っ伏して、あっけなく気を失ってしまった。
ダンが冒頭の格言を思いだしたのは、かなり時間が経ってからだ。
しがない農夫から心機一転して自由傭兵の身分を手に入れ、意気揚々と繁華街へ繰りだした、その最初の日の出来事だった。
気がつくと、カビ臭いにおいがする、やたらと硬い寝台に、四肢をだらしなく伸ばして寝ていた。
天井を支える黒ずんだ梁には見覚えがあった。ここは自分の部屋──居酒屋兼宿屋となっている建物の、二階の端部屋だ。今朝、この宿屋に転がりこんできたばかりだった。
頭が割れるように痛んだ。身体もひどくだるい。
それに……なんだか臭い。すりきれた袖を顔の前に引き寄せてクンクンとにおいをかぐ。
やっぱり。臭いのは自分の服が原因だと悟る。鼻を刺すような金果酒のにおいと、乾いた汗のにおいが入り混じって、ひどい悪臭を放っている。どうやら具合が悪くて、たっぷりと汗をかいて寝ていたらしい。
うめき声をあげる。慎重に上半身を起こす。たったそれだけの動作で、あちこちの筋肉がきしんだ。
シミや傷だらけの壁には、粗悪な画布にくすんだ色の絵の具で描いた、安っぽい絵が飾ってあった。海竜と戦う軍船の場面を描いたものだ。ウロコに覆われた巨体を海面からヌッと突きだして、醜悪な怪物が軍船に牙をむいている。その海竜の、縦に裂けた不気味な瞳孔が、宿泊客であるダンをじっと見守っていた。
汚れたガラス窓に顔を向ける。まだ陽は高い。きちんと窓枠にはまっていないガラスの隙間から、生臭いにおいが漂ってくる。意味のわからない外国語が入り混じった人々の喧騒(けんそう)が、窓の向こう──市門から港までを結ぶ目抜き通りの方角から聞こえてきた。
頭をかく。粘度の高い、泥のようなものが髪にからまっている。指でほぐすとパリパリと割れた。指先についた黄色っぽい粉は、金果酒の強烈なにおいがした。髪にからみついたものの正体はまちがいなく、ムダになってしまった酒だろう。
ため息をつく。深く息を吸うと、その途中で咳こんだ。ムシャクシャして、叫びだしたい衝動がこみあげてきたが、そんなことをしたら咳が止まらなくなりそうな予感がした。
もう一度、ため息。
自分の失態を思い起こす。羞恥心で頬がほてってくる。空っぽの胃がむかついた。
(クソ、酒を呑んでぶっ倒れるなんて……最悪だ)
それにしても、この部屋まで運んでくれたのは誰だろう、と不思議に思う。居酒屋のオヤジか。そんなに親切そうには見えなかったが。オヤジでないとすれば、居酒屋にいた傭兵の誰かだろうか。それもありそうにない。
とにかく、これでひとつ、貴重な教訓を得た。
(おれは金果酒を呑めない。今度、呑んだら本当に死ぬかもしれない)
養成所で厳しい修行を積んで、やっと自由傭兵になれたんだから、死ぬときは戦場だ、と決めている。まかりまちがえても居酒屋のテーブルであったりしてはならない。断じて。絶対に。
(とにかく、身体を洗って服を着替えるか。このにおいはガマンできないな……)
寝台の足元に積んだ荷物のなかから服と下着を取りだして脇に抱え、部屋を出て、昼でも薄暗い廊下をたどる。廊下の端は一階へ降りる階段になっていた。階段を降りて、右の廊下を進めば居酒屋を兼ねた食堂、左の廊下を進めば露天風呂だ。
左の廊下を、おぼつかない足取りで歩いていく。頭痛は多少マシになったが、全身に残るけだるさは回復するどころか、ますますひどくなっていくような気がした。
脱衣場があった。誰もいない。あとで知ったことだが、脱衣場の入口には男性客の入浴を禁じる札がかかっていた。気分が悪かったこともあり、ダンはうっかり札を見逃していたのである。
着替えをカゴのなかに放りこみ、手早く服と下着を脱ぎ捨てる。たてつけの悪い引き戸を強引に開けて、湯煙のこもる浴場に足を踏み入れた。
こんな場末の木賃宿(きちんやど)にしては意外に広々とした、石組みの浴槽があった。
浴槽のなかには先客がいた。
こちらに背中を向けていた浴槽のなかの人物が肩越しに振り返る。ダンと目が合う。
美しい少女だった。
つややかな銀髪が湯気の立つ水面で渦を巻いている。
深い闇を凝縮したかのような漆黒の双眸。透明感のある、乳白色の肌。
そして、肩から続く緩やかな曲線のさきの、たわわなふたつのふくらみ。
胸の谷間の底で、黒っぽい宝石が湯気を透かして輝いている……。
凍りつく。空気が、時間が、思考が、なにもかも。
心臓が高鳴る。息がつまる。まばたきさえできない。
呪縛をさきに破ったのは浴槽につかった少女のほうだった。あわてて湯船に身を沈め、耳をつんざくような悲鳴をあげる。
逃げだした。そこから。無我夢中で。
どうやって自分の部屋に戻ったのかはよく憶えていない。けれども、脱ぎ捨てた服と着替えはしっかりと胸に抱えていた。
裸のまま、寝台に倒れこむ。
──そのときばかりは本気で死にたくなった。
いつの間にか、眠ってしまったらしい。