【短編集】人魚の島
ドアを乱打する音で目覚めた。うなり声で返事する。ドアが開く。少女が入ってきた。露天風呂で出会った──とダンは解釈している──銀髪の美少女。
ダンの一糸まとわぬ姿を目にして、少女が甲高い悲鳴をあげる。
(よく悲鳴をあげる女だな……)
急いでドアを閉めて廊下に退避する少女の背中を見送って、ダンはうつろな笑い声を洩らす。
「服を……服を着なさい! ハナシはそれからです!」
ドアの向こうから少女の声。怒っているのが声の調子からわかった。
(おれはあんたの裸を見て、あんたはおれの裸を見たんだから、おあいこじゃねえか。怒ることはねえだろ)
ダンは起きあがり、まだボサボサの状態のままの頭を右手でかきむしった。
「誰だ、あんたは?」
「いいから、服を着て!」
「ったく、めんどくせえな……」
汚れた服を着るのはさすがにためらわれたので、用意していた着替えを身につけた。早く着替えなさい、とドアの向こう側から矢の催促が何度も届く。
「もういいぞ。入ってこいよ」
勢いよくドアが開かれる。銀髪の美少女がドアのそばで腰に手をあて、仁王立ちしていた。顔が真っ赤だ。怒っているのか、ダンの裸身を見て恥ずかしがっているのか、あるいはその両方なのか、なんとも判別がつかない。
ダンは目をすがめて、彼女の全身をつぶさにながめる。
立つと思っていたよりも背が高い。たぶん、ダンとそれほど背丈は違わない。長い銀髪の束が肩から胸、お腹へと流れくだり、腰でしめた黒いサッシュのあたりで丸まっている。着ている服の生地はツヤがあって、そこそこ上質なものだが、袖や襟の飾りはとぼしく、模様も染め分けもない。見事だと思ったのは、風呂場でも目撃した、彼女の胸の大きさだ。かたちのよい半球が服を着た上からでもはっきりとわかる。思わず知らず見とれていると、少女の唇の端がキュッとつりあがった。
「あなたの名前は?」
「あん?」
「あなたの名前を訊いてるんです! 答えなさい!」
「ダン、だよ」
「姓は?」
「バカか? 平民に姓なんかあるわけねえだろ」
バカ呼ばわりされて気に障ったらしい。頬の赤みが増したのはまちがいなく、怒りのためだろう。
怒鳴られるのかと思いきや、少女は室内をゆっくりと見回し、ダンの装備をひとつひとつ確認していく。寝台の横に置かれた荷物。荷物の肩ヒモに真鍮製の鎖で結びつけられた、自由傭兵であることを示す六角形の木の札。そして、壁に立てかけた片刃の剣。剣のところで彼女の視線がピタリと止まる。数秒間、剣を見つめていたが、おもむろに口を開いた。
「あなたは自由傭兵なんですね? 最初は、盗賊の一味かもしれないと思っていました」
今度はダンがムッとする番だった。
「おれがそんな悪党に見えるのかよ?」
「お風呂に入っているわたしをのぞき見した罪人が、どの口でそんなことを言うのですか?」
「見たくて見たんじゃねえ!」
失言だった。
少女がドスドスと近づいてきて、手を振りあげる。ヤバい、と思ったときには遅すぎた。ダンの左の頬が派手に鳴る。勢いが強い。姿勢を崩した。とっさに伸ばした右手が、少女の腰のサッシュをつかんだ。
グイと引き寄せる。少女がダンのほうに倒れこんできた。少女の体重を受け止めきれず、彼女といっしょになって寝台に転がる。またもや少女の悲鳴。
少女は、とてもいいにおいがした。花の香りを濃縮した香水をふんだんにつけている。
手探りすると、なにか柔らかいものをにぎった。少女の胸だった。その感触を堪能するヒマもなく、彼女の肘鉄がダンの顔面にめりこむ。鼻柱が不気味な音をたてた。
気絶しかけた。懸命に意識をつなぎとめ、ズキズキする頬と鼻の痛みをこらえて、起きあがる。
少女が涙目でダンを見下ろしている。かみしめた唇は色を失って白くなっていた。
「無礼者!」
少女がわめく。ダンは鼻が痛くてそれどころじゃない。上唇に触れると、指先にぬるりとした血がついた。
「よくも……よくもわたしの身体に……わたしのことを誰だと思っているんですか!」
「で、誰なんだ、あんたは?」
心持ち顔を仰向け、垂れてきた鼻血を手の甲でぬぐう。自分の血を目にしたら、心の奥底から怒りがフツフツとわいてきた。少女を正面からにらみつける。
少女の表情から険が抜けていく。赤みが薄れ、顔色がどんどん白くなっていった。深呼吸をひとつ、ふたつ。目をつぶり、海神の御名をつぶやき、複雑な印を切ってから、目を開く。
闇の色をした双瞳と向き合う。ドキリとした。間近で見る彼女の美しさに。自分をまっすぐに射抜く、彼女の眼差しの強さに。
血の鉄臭いにおいでいっぱいの鼻に、香水のふくよかな芳香が覆いかぶさってくる。それとは別のにおい……なにかが腐りかけたような、甘ったるいにおいがかすかにした。
「わたしの名前は……」
銀髪の少女はそこでいったん、息を継ぎ、語勢を強めた。
「わたしの名前はティアナといいます。お願いです、ダン。わたしの護衛になってくれませんか?」