【短編集】人魚の島
美月は手を伸ばし、天井からつりさがった千羽鶴を乱暴にむしりとる。ベッドの上に落ちたそれを小さな足で踏みにじり、蹴飛ばす。たったそれだけの動作で息が乱れ、痩せた肩が上下する。
テディベアたちは無言で見守っている。まるで葬式に参列した会葬者のように。
「あなたと沙綾ちゃんは友達じゃなかったの?」
「友達だよ。あたしの病室は隣だったの。沙綾とはすぐに仲良くなれた。たったひとりの友達だから、大切にしてたこの子をあげたのよ」
美月は両腕を前へ伸ばして、チョコレート色のテディベアを突きだす。くたりと垂れたぬいぐるみの首は、彼女の言葉を首肯(しゅこう)しているかのようだった。
「テディベアが好きなのは沙綾ちゃんじゃなくて、あなただったのね?」
美月は虚ろな声で笑う。宙に浮かぶテディベアたちが上下左右に細かく震える。笑っているらしい。死んでも死にきれない少女といっしょになって。
沙綾がテディベアに執着するようになったのは、彼女に憑依した美月が影響を与えたのか、それとも亡くなった友達を慕ってのことなのか──わたしにはどちらとも判別がつかなかった。
「沙綾は約束を破ったのよ。だから、沙綾を殺すの。それのどこが悪いわけ?」
「友達想いなのね、美月ちゃんは」
わたしの皮肉に美月は逆上する。腰をかがめ、ちぎれた千羽鶴を鷲づかみにして投げつける。半分に破れた短冊がひらひらと宙に舞う。
「まだ死にたくなかったよ!」
ヒステリックに叫ぶ。濃い闇の色をした双眸(そうぼう)が月の光を浴びてほのかに光る。
「どうしてあたしの方が先に死ななくちゃならないの? そんなの、まちがってる!」
点滴の袋をひきちぎろうとして、美月の左手が泳ぐ。わたしはとっさに動いて、彼女の指が袋にかかる寸前で手首をつかんだ。腕をふりほどこうとして少女が激しく身をよじる。わたしは強くにぎって放さない。
美月が獣じみた声でうなる。空中にとどまっていたテディベアたちが身震いした。わたしに向かって音もなく殺到してくる。
空いている方の手で美月の顎をはさみ、無理やり顔をこちらに向かせる。
美月の両眼の奥をのぞきこんだ。
わたしの眼と向き合ったとたん、美月の全身が雷に打たれたみたいに硬直する。
行き場を見失い、猛り狂っていた魂が──死んでもなおそれを認めようとしない幼い魂が、わたしのなかに沈殿する底の知れない常闇に呑まれて、空気の抜けた風船のように萎縮していく。
勢いを失ったテディベアが失速する。ぬいぐるみの床に落ちるくぐもった音が、立て続けに響く。
こわばった少女の面貌にいくつもの感情がせめぎあっている。憤怒、驚愕、困惑、悲嘆、絶望──そして、最後は安堵。眉間に盛りあがったしわがしだいに薄れると、しゃくりあげる声が喉の奥からこみあげてきた。
美月の目尻に結んだ透明な粒が、色あせた頬をすべり落ちていく。右腕に抱えたままのテディベアに涙の粒が散って、ぬいぐるみの黒い鼻面を濡らす。
「……ごめんなさい」
聞きとりにくい小さな声で、美月は言った。
誰に向けた謝罪だったのだろう。沙綾か、わたしか、あるいはその両方なのか。
少女の背中に腕を回して、そっと抱きしめる。
痩せた小さな身体は、思っていたよりも冷たかった。
散らばったテディベアを拾って、もとの位置にきちんと戻す。床にばらまかれた千羽鶴の方はどうにもならなかった。捨ててしまうわけにもいかないので、空いていたフルーツの籐かごにかき集めた千羽鶴の残骸を押しこむ。母親がこの惨状を目にしたらどんな表情をするだろう。それを想像するだけでため息が出てきた。
ようやくあとかたづけが終わって、室内をもう一度点検する。
ベッドに視線を転じた。
沙綾はなにごともなかったかのように眠っている。穏やかな寝顔。枕元のテディベアは、さながら彼女を守る不寝番の兵士のようだった。
ベッドのそばに寄って上から沙綾の顔をながめる。気配を感じたのだろう。少女の目蓋がゆっくりと開いた。
沙綾と目が合う。わたしはたじろいだ。
深夜の病室にひとがいても、沙綾は驚かない。おずおずと、はにかんだ笑みを浮かべる。
「ありがとう、天使のお姉ちゃん」
「え?」
「美月ちゃんを天国へ連れて行ってくれたんでしょ?」
「……知ってたの?」
「うん。わかってたよ。ときどき美月ちゃんが沙綾の身体を使ってたこともね。美月ちゃんの声も全部聞こえてた」
毛布の下から手を出して、テディベアの頭を優しくなでる。口許に残っていた笑みのかけらが急速にしぼんでいく。
「沙綾が悪いんだよ。約束、破ったから。美月ちゃん、とっても怒ってたね」
「沙綾ちゃん、それは……」
「ごめんね、美月ちゃん。天国にひとりで行かせちゃって……」
わたしは言葉を失う。約束を守れなかったことに怒り狂ったテディベアが、いまにも沙綾にかみつきそうな錯覚に襲われて、無意識のうちに右手が伸びた。
テディベアに触れたわたしの右手の小指に沙綾の細い指がからみつく。ハッとして目を向けると、枕に沈んだ小さな顔のなかで漆黒の双瞳が、生まれたばかりの星のように輝いていた。
「沙綾ね、ほかのひとには見えないものが見えるんだよ。死んだひとも見えるの。迷子になってるみたい。天国への行き方がわからないんだって」
わたしの手を引き寄せて自分のおでこに押しつけ、苦しげな息を吐く。
「だから、お姉ちゃんが迷子のひとを天国へ連れて行ってよ。美月ちゃんみたいに……」
わたしが人間ではないことを見抜いたのは、沙綾の生まれついての能力だった。けれども、わたしの本当の姿を彼女はわかっていない。
何度も「わたしは天使じゃない」と言いかけて口が動いたが、声は出てこない。
言えなかった。ひたむきな目でわたしを見つめる少女に向かって。
ためていた息を吐きだす。
どうか天使に見えますように、と願いつつ、微笑みを浮かべて、
「大丈夫よ。わたしは何度でも迎えに来るから」
嘘じゃない。それがわたしの仕事だから。
沙綾はこくりとうなずく。天井を見上げ、そこに千羽鶴がないことに気づいて、顔をしかめた。
「千羽鶴、壊れちゃったね。きっとママに怒られるな」
「また折ってくれるわよ」
「そうだね」
ひっそりと微笑んで、横目でわたしをうかがい、
「お姉ちゃん、ひとつ教えて」
「なに?」
「沙綾の病気は治るの?」
わたしには人間の寿命が見える。それも死神の能力のひとつだ。
沙綾は大人になれない。将来、医者になることもできない。わたしはそれを知っている。
なにも答えられなかった。天使だったら、「きっと治るわよ」と言って、沙綾を安心させてあげればいいのに──そう思っても、ここで嘘をつくことは死神である自分を全否定するような気がして、わたしは口をつくんでいた。
わたしの沈黙は否(いな)を意味する──子供の沙綾にも、それぐらいは察しがついたようだ。鎖骨の浮きでた肩が小刻みに震える。
「じゃあ、もうすぐ美月ちゃんのいるところへ行けるんだね?」
なおも黙っていると、少女はうれしそうにクスクスと笑う。ひとしきり笑って呼吸が乱れると、かすれた声でつぶやいた。
「……お姉ちゃんの翼、すごくきれいだよ」
「ありがとう」