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【短編集】人魚の島

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 沙綾は微笑む。声は出さずに口だけを動かす。「ナイショだよ」と言いたいのだろう。了解したしるしに小さくうなずいて片目をつぶってみせると、少女の笑みは満面に広がった。
 その場はすぐに収まったが、天使を詐称した報いはすぐに受けることとなった。母親がトイレに立って病室からいなくなったとたん、沙綾は黒曜石のような瞳をキラキラと輝かせて、わたしを質問攻めにする。
「お姉ちゃん、やっぱり天使なんだね?」
 演技を続けるしかなさそうだ、と思った。この世界にいるあいだは人間の少女を装っているように。
「うん、そうよ」
「そうだと思った!」
「どうしてわかったの?」
「だって、お姉ちゃんの背中にあるのは翼でしょ?」
「翼?」
 思わず、高い声が出てしまった。
 まさか。翼なんて、あるわけがない。
 それとも、少女の目には本当に翼が見えているのだろうか。死神であるわたしの背中に。
 二の句が継げずにいると、それを肯定と解釈したのか、沙綾は別の質問をぶつけてきた。
「沙綾を迎えに来たの?」
 ベッドのなかから見上げる沙綾の表情は真剣そのものだった。
「……違うわ」
「じゃあ、誰を迎えに来たの? 教えてよ」
「天国に行けなくて困ってるひとよ」
 沙綾は焼けつくような強い眼差しでわたしを凝視する。
「……いるの、そんなひと?」
「いるわ」
 少女の視線にこめられた圧力を正面から押し返して、きっぱりと言い切る。
「この病院のどこかにいるの」

 沙綾はよく眠っている。目を覚ます気配はなかった。
 さっきから気になっていたものへと視線を移す。
 枕元の薄汚れたテディベア。毛のない、つるりとしたお腹に、点々と黒いシミがついている。
 触らなくてもわかる。あれは血の痕だ。でも、沙綾の血じゃない。別の誰かの血。
 沙綾にまとわりつく邪気を感じたとき、強く確信した。
 わたしが探していた亡者の魂は、彼女とともにいる、と。
 手を伸ばす。テディベアに指先が触れようとしたそのとき──沙綾がぱっちりと目を開ける。眼球が動いて、わたしを見据える。薄笑いを浮かべた。
「あなた、ホンモノの天使?」
 沙綾の声で、彼女ではない誰かがしゃべる。
 わたしが目を細めると、少女は毛布に包まれた肩を揺らして乾いた笑い声をたてる。
「もしかして、あたしを迎えに来たの?」
「……沙綾から離れなさい」
「イヤ。沙綾はあたしの友達なのよ」
「その友達にとりついてなにをしようとしているの、あなたは?」
「当ててみて。天使なんでしょ?」
「わたしは天使なんかじゃ……」
 背後でドアの開く音。足音がゆっくりと近づいてくる。
「お待たせして、ごめんなさい」
 視野の外から母親がすべりこんでくる。新しい花で飾った花瓶をサイドテーブルの上に置き、ベッドをのぞきこむ。
 沙綾は眠っていた。気持ちよさそうに。
 母親の表情がやわらぐ。毛布の乱れを整え、枕に半分埋没したテディベアを助け起こして、沙綾の顔の近くにそっと寝かせる。
 わたしは丸椅子から腰を上げる。知りたいことがわかった以上、ここに長居するつもりはなかった。母親に向かって頭を下げる。
「わたしはそろそろ失礼いたします」
「ありがとうございました」
 母親は丁寧にお辞儀する。一拍おいて、控え目な微笑を口許にちらつかせた。
「娘のわがままに付き合ってもらっちゃって……ご迷惑をおかけしましたね」
「またお見舞いに来ます」
 なにか言いかけた母親の機先を制して、言を継ぐ。笑みが自然とこぼれた。
「沙綾ちゃん、わたしのことを天使だと思ってるようですから……」

 真夜中。
 約束はしたけれど、見舞いに来るには遅すぎる時間だ。
 けれども、病身の少女にとりついた亡者の魂を狩るにはこの時間帯しかない。昼間は人目が多すぎて仕事がやりにくい。
 病院の隣にうずくまる五階建てのマンションの屋上に立ち、そっと空を蹴る。ためらいがちだった風が勢いを増して、わたしの身体を宙にさらう。満月を過ぎた太い月が、虚空に舞うわたしを物憂げにながめていた。
 病院の屋上に降り立つ。きちんと整列した物干し竿のあいだの谷間をくぐり抜け、錆びついたドアを解錠して、建物のなかへと忍びこむ。沙綾の病室がある小児病棟へ向かい、階段を三階まで降りる。
 静かだった。外を走るクルマの音がときおり聞こえる程度で、物音はひとつもしない。
 階段室の角から頭を出して様子をうかがう。照明の落とされた長い廊下。エレベーターのある、廊下の真ん中のあたりが煌々(こうこう)と明るい。ナース・ステーションだ。その前を通らないと沙綾の病室へは行けない。
 足音を殺して、ナース・ステーションへ忍び寄る。
 音はまったくたてなかったはずなのに、デスクの後ろの棚をかきまぜていた年かさの看護師が、気配を敏感に察して肩越しに振り返る。わたしを認めて、目を丸くする。
 看護師を見つめる。眼をそらさず、じっと。
 わたしの眼を直視した彼女の顔から徐々に表情が蒸発していく。
 看護師は棚に向き直り、さきほどの作業の続きに戻る。鼻唄を口ずさみながら、分厚いファイルのページを繰っている。もうこちらには目を向けようとしない。
 ナース・ステーションの前を通過して、暗い廊下の奥へと進む。非常口を示す緑白色の灯りが唯一の光源だ。
 沙綾の病室の前に立つ。子供の楽しそうな笑い声がドアの向こう側から洩れてくる。
 深呼吸をひとつ。
 ドアに手をかけて、横にスライドさせる。
 銀色の冴えた月光が、カーテンを開け放った窓から斜めに射しこんでいた。
 笑い声がぴたりとやむ。
 ベッドの上にパジャマ姿の沙綾が立っていた。両腕にチョコレート色のテディベアをしっかりと抱きしめて。
 闇が凝り固まったような暗い瞳が、わたしをとらえる。
 沙綾の動きに合わせて、空中を漂っていたたくさんの小さな影がいっせいに振り向く。
 テディベアたちだった。ぬいぐるみの無機質な視線がわたしに集中する。
 死神であるわたしは闇のなかでも視力を失わない。あえかな月の光に濡れそぼつ銀色の薄闇の底で、沙綾の唇がいびつな形に歪むのがわかった。
「来ると思ってたよ、天使のお姉さん」
 わたしは後ろ手でドアを閉め、ベッドの近くへ寄る。沙綾も、空中に静止したままのテディベアたちも、身じろぎひとつしない。花の香りに混じったかすかな腐敗臭が鼻をつく。死臭だ。少女の身体が、その臭いのもとだった。
 沙綾に視点を据えたまま、彼女のなかにいる存在へ呼びかける。二ヶ月前に死んだ少女の名前を使って。
「美月ちゃんね?」
 その名前を耳にして、沙綾がピクリと反応する。テディベアを抱く細い腕に力がこもる。
「あなたを探してたのよ。わたしといっしょに行きましょう」
 右手を差し伸べる。沙綾の姿をした亡者──美月はわたしをにらみつける。子供のものとは思えない、むきだしの、生々しい憎悪をこめて。
「イヤよ。あたしはここにいたいの」
「なぜ?」
「沙綾がまだ生きてるからよ!」
 美月の声色には強い怒りがにじんでいた。
「絶対、許せない。天国へ行くときはいっしょだよって、あれほど約束したのに!」
作品名:【短編集】人魚の島 作家名:那由他