【短編集】人魚の島
3
M因子。
それを発見したのは、某大学の生物学研究所だ。ごく一部の人間が持つ、突然変異の遺伝子で、二十歳に満たない女性に限って劇的な効果を発現させる。中世のヨーロッパで魔女と糾弾され、火刑に処されたあまたの女性は、もしかするとこの遺伝子の持ち主であった可能性もある。
M因子のMはmagicの略だと言われている。なにもないところから無限の〈力〉を引きだし、さまざまな物理現象を引き起こす超能力──それを「魔法(マジック)」と呼んだのは、ひねくれたユーモアのつもりだったのかもしれない。
M因子の効果に目をつけ、これを兵器として利用することを思いついたのは、国防軍だった。
当時、この国は追いつめられていた。異国からの侵攻軍はこの国の中央部を制圧し、首都の周辺では激しい戦闘が行われていた。M因子プロジェクトはそうした絶望的な戦況のもとで極秘裏に進められた。
培養タンクのなかで常人の二十倍のスピードで成長する、わたしを含めた三百体のプロトタイプが最初に生産された。プロトタイプの運用テストの結果を受け、改良したのが、量産タイプの完成品だ。
国防軍によってつくられ、実戦に投入された彼女たちは、「戦闘体」という無味乾燥な軍事用語ではなく、残酷な期待をこめて「魔法少女」と呼ばれていた。
最終兵器と化した魔法少女たちの反撃が開始される。灼熱の炎で敵の戦車を焼きつくし、大量の水で敵兵を溺死させる。敵の戦闘機を〈力〉でつかまえて、敵軍のど真ん中に墜落させる。軍艦を乗組員ごと海中に沈め、潜水艦と潜水艦を正面衝突させる……。
魔法少女たちの参戦からわずか三ヶ月で、圧倒的な戦力をほこっていた異国の侵攻軍は壊滅した。
だが、想定外の誤算もあった。M因子注入の副作用として、プロジェクト推進の当初から事象が報告されていた、破壊衝動の異常な増進──自分の周囲をすべて敵とみなし、無差別に攻撃する狂気が、一部の魔法少女たちにじわじわと広がっていたのだ。
戦時中、わたしは西部の前線で異国の軍勢と戦っていた。
何人の敵を殺し、どれだけの兵器を破壊したのか、よく憶えていない。
抵抗できない敵は、もはや敵じゃない。ただの死体とスクラップの集積物だ。わたしの関心は、生きていて、まだ充分に戦える敵に向けられていた。
わたしが所属していた部隊には、わたしのほかに八体の魔法少女が配属されていた。彼女たちにパーソナル・ネームはない。「峨合院のぞみ」というパーソナル・ネームが付与されていたのはわたしだけだった。
だから、わたしが彼女たちのことを思い起こすときは、無色透明な個体識別番号が彼女たちのパーソナル・ネームの代用となる。
そんな八体のうちで、雪乃だけは特別な存在だった。
「雪乃」というパーソナル・ネームは彼女自身がつけたものだ。部隊の誰も彼女をそのパーソナル・ネームで呼ばなかったが、わたしだけは「雪乃」と呼んでいた。別に彼女に親しみを感じていたからじゃない。長ったらしい個体識別番号よりは「雪乃」のほうが格段に呼びやすかったからだ。それでも、彼女はそのことをひそかにうれしく思っていたらしい。
雪乃とわたしはいつも行動をともにしていた。戦場で敵と戦うときも、突然の驟雨(しゅうう)を避けて身体を休めるときも、わたしたちは決して離れ離れにならなかった。
ふたりで薄汚れた星空を見上げたこともある。星にも名前があることを教えてくれたのも雪乃だった。ひときわ明るく輝く星を指さして、星たちの秘められた名前を雪乃がわたしに耳打ちする。そんなものに意味はない、とわたしがにべもなく切り捨てると、彼女はわびしげに肩をすくめてみせた。
雪乃は、わたしたちに遺伝子の素材を提供した人間──遺伝学的な親ともいうべき人々がいることを聞き飽きるぐらい滔々(とうとう)とまくしたてた。
「会ってみたいわ、そのひとたちに」
雪乃は自分の身体を見下ろしてため息をつく。
会ってどうするの、というわたしの問いかけに、雪乃は断固とした口調でこう答えた。
「わたしは単純な兵器なんかじゃないって思いたいのよ」
おかしなことを考える個体だ、とわたしは思った。
あとで知ったことだが、自分自身に名前をつけた雪乃は、ヒト型の兵器に致命的な「欠陥」を抱えた個体だったのだ。
雪乃には、魔法少女にないはずのもの──「心」があった。わたしには奇行と思える彼女の言動は、すべて彼女の「心」から発したものだった。
ある日、激戦となったかつての大都市の廃墟のかたすみで、わたしたちの仲間の魔法少女が死んだ。
原型をとどめないぐらいに押しつぶされた魔法少女の死体を前にして、雪乃は声を殺してむせび泣いた。
涙を流すことができたのは、雪乃が悲しみを知っていたから。
わたしには決して手の届かないものを、雪乃が持っていたから。
どうして泣いてるの、と尋ねると、雪乃はゆっくりと首を横に振った。
「……あなたにはわからないでしょうね」
雪乃はポツリとつぶやいた。頬を濡らす銀色の涙を、血と泥に汚れた手の甲でぬぐい、乾いた笑みを──そう、彼女は微笑むこともできたのだ──浮かべる。
わたしは仲間だった魔法少女の引きちぎられた断片を見下ろす。破壊された有機物の残骸をつぶさに観察したところで、どんな感慨もわいてこない。わたしの視覚は情報の入力装置にすぎないのだ。目に映るものに特別な意味などなかった。
「いいのよ、わからなくても。でもね、わたしが死んだときはなにかを感じてほしいの」
「敵を憎むことはできる。わたしにできるのはそれぐらいよ」
「そうね。それでもいいわ。わたしのために敵を憎んで……」
約束する、とわたしは答えた。それが正しいことのように思えたから。
わたしの返答に満足したのか、雪乃はたおやかに微笑んだ。
いまでもその笑顔をはっきりと憶えている。それは、わたしの視覚が入力装置以上の働きをした最初の瞬間だったかもしれない。
それから数ヶ月後に雪乃は死んだ。
雪乃を殺したのは敵ではなく、わたしたちと同じ魔法少女──狂気にとりつかれた兵器だった。
下腹部にひどい損傷を負い、砕けたコンクリートの路面に四肢を投げだした雪乃は、未完成のまま放りだされた奇妙なオブジェにしか見えなかった。
雪乃が口を動かしている。わたしは彼女の口許に耳を寄せた。
「……約束……守って……」
「忘れていない。わたしは敵を憎む。あなたのために敵を滅ぼすから」
雪乃がなにかを言いかけた。「ありがとう」なのか、それとも別の言葉だったのか。いまとなっては知りようもない。口が半分開いたところで、雪乃は活動を完全に停止した。
わたしのなかでなにかが音をたてて壊れた。
それがなんなのか、そのときのわたしには皆目わからなかった。
それからほどなくして、戦争は終わった。
けれども、今度は魔法少女同士の、際限のない殺し合いが始まった。
無分別にふるわれた〈力〉は、この国だけではなく、世界中のありとあらゆるものを深く傷つけ、多くの人々の命を奪うこととなった。
戦争が終わり、兵器としての役割を見失った魔法少女は、創造主にあだなす人類共通の敵となったのである。