【短編集】人魚の島
忘れじのピアノ
ドアを開けると、古びた木材の香りがわたしを出迎えた。
母の実家にあるこの部屋に足を踏み入れるのは、実に三年ぶりだった。
小さな子供のころは年に数回、遊びに来ていた母の実家も、最近は冠婚葬祭の行事でもないかぎり訪れることはめったにない。今回、ここへ来たのも、従兄の結婚式に出席するためだった。
十畳ほどの広さの洋間。箱入りの文学全集がきちんと並ぶ、背の高い書棚。たゆみないリズムで時を刻み続ける柱時計の上には、木彫りのフクロウが眠たげに半分眼を閉じて腰かけている。
そして、部屋の真ん中に据えられた、傷だらけの古いグランドピアノ──亡くなった祖母がよく弾いていた、思い出のピアノだ。
母に頼んであらかじめエアコンの暖房をつけてもらっていたが、部屋はまだ充分に暖まっていない。スリッパをはいていても、羽目板の床の冷たさが足裏にじんわりと伝わってくる。
窓に目を向けると、外は一面の雪景色だった。さきほどから雪が降っている。
こんこんと、音もなく、濃灰色の厚い雲の底から、無数の白い雪片がひらひらと舞い降りてくる。
わたしの七歳の誕生日が過ぎたばかりの、十年前の寒い冬の日──祖母が亡くなったあの日も、今日と同じように雪が降っていた。降りしきる雪のなか、火葬場に向かうマイクロバスのなかで母にすがり、泣きじゃくっていたのをおぼろげに憶えている。
ふたを開け、ピアノの鍵盤をまさぐる。白鍵を押す。ろくすっぽ調律をしていないはずなのに、余韻をひく透きとおった音はわたしの耳に心地よく響いた。
このピアノには祖母の想いがたくさんつまっている。祖母が亡くなったいまでも、その想いは消えていない。
母から聞いたことがある。
もとはといえば、このピアノは音楽家志望の大伯父──祖母の兄が使っていたものだった。戦争で戦地へ赴くこととなった彼は、祖母にこう告げた。
僕が還ってこなかったら、このピアノはおまえにあげよう。おまえに使ってほしいんだ。
祖母は兄の還りを待ち続けたが、彼はついに還ってこなかった。ある日、遠い南の島で戦死したことを知らせる通知が、家族のもとに届いた。ピアノは祖母がそのまま受け継いだ。兄の望みどおりに……。
こうして鍵盤に指を置くと、楽しげにピアノを弾く祖母の姿がまぶたに思い浮かぶ。この部屋で、祖母は何度もわたしのためにピアノを弾いてくれた。
小学校の音楽の先生をしていた祖母はピアノが得意だった。祖母のようになりたくて、わたしも小学一年からピアノを習い始めた。祖母が亡くなったのは、わたしがピアノを始めた直後だ。
あれから十年が経ち、高校生になったいまも、ピアノは続けている。コンクールで入賞した経験のないわたしに音楽の才能はないかもしれないけど、やめたいと思ったことはこれまでにない。
ピアノを弾くのは楽しい。この部屋で、祖母のピアノを聴くたびに感じていた温もりは、いまだに輝きを失うことなく、胸の奥にひっそりとたゆたっている。
祖母が教えてくれたのだ。ピアノを弾く楽しさを、わたしに。
祖母がどんな曲を弾いていたのか、いまとなってはもう正確に思いだせなくなっている。ショパン、モーツァルト、バッハ、ベートーヴェン──あるいは、シューベルト。どれもが聴いた気もするし、聴かなかった気もする。
小さな子供であった日々の思い出は、ゆっくり、ごくゆっくりと蒸発していく。祖母の容姿も言葉も、わたしを包んでくれた優しい微笑みさえも、時間が経てばいずれは磨耗して、記憶の迷宮のなかに深くうずもれていくのだろう。
けれども、ひとつだけ、忘れえぬ曲がある。
祖母がよく弾いていた、名もない曲。祖母がとても好きだった、楽譜もない曲。
わたしがねだると、祖母はいつもこの曲を弾いてくれた。
古めかしい室内に満ちる、緩やかな調べ。高く、高く、ときには低く、しなやかに、伸びやかに、それでいて力強く。
ひととおり弾くと、祖母はわたしが大好きなココアを淹れてくれた。アツアツのココアをすするわたしをながめてにっこりと微笑み、祖母は決まってこう言うのだ。
「この曲、忘れないでね」
ココアを飲みながら、わたしはいつも同じ答えを返した。うん、忘れないよ、と。
それが、祖母と交わした約束。
末期癌と診断され、入院した祖母を見舞ったときも、ベッドのなかであのメロディーを口ずさんでいた。絶対に忘れないからね──ひどくやつれたその姿にとまどいつつも、青黒い静脈の浮いた手をそっとにぎると、祖母は苦しげな吐息をついて涙をこぼした。
「……ごめんなさいね」
そのときのわたしは祖母がなにを謝っているのか、わからなかった。あれはもうピアノを弾いてあげられなくてごめんなさいね、という意味だったのだ──それがわかったのは、ずっとあとになってからだ。
ピアノの前に座り、鍵盤に指を添える。ひんやりとした感覚。
ひとつ、深呼吸。
起きて、と心のなかでピアノに呼びかける。起きて、わたしをちゃんと見て、と。
このピアノに触れるのもずいぶんとひさしぶりだった。はっきりと憶えていないが、小学校の中学年のとき以来だから、かれこれ七、八年は経っている。以前は、祖母のピアノに触れるのがなんとはなしにためらわれた。ピアノを弾くのは好きだったが、下手くそなわたしのピアノは天国にいる祖母をがっかりさせるかもしれない──心のどこかで強迫観念めいたそんな不安を抱えていたんだと思う。ピアノを弾いたあとに突然こわくなって、わけもなく泣きだしたこともあった。
いまは心なしか、ピアノが記憶にあるよりも小さくなったように思えた。たぶん、それだけわたしが大人になった、ということなのだろう。少しだけ祖母に近づいたいまのわたしには、言葉にできないようなためらいもおそれもない。
寒くて指がちょっとかじかんでいるけれど、大丈夫、まだ思いどおりに動いてくれる。
さあ、弾こう。祖母が聴かせてくれたあの曲を。
ピアノは、きっと応えてくれるはずだ。
ピアノを弾く、わたしの想いに。
鍵盤のひとつひとつにこめられた、祖母の想いに。
わたしの指が鍵盤の上を走る。軽やかな音が流れる。世界が動きだす。
すると──
わたしの視界が、ぐるりと回転した。
黒っぽい板張りの部屋。傘をかぶった黄白色の電球が、天井からぶら下がっている。
壁に寄せてピアノが置かれていた。祖母がよく弾いていた、あの古いピアノだ。ピアノの前には軍服姿の青年が座っている。青年の頭上に開いた窓の外は、積もった雪が景色を白一色に染めていた。
青年がほっそりとした指でピアノを弾く。おどるような、なめらかな身のこなしで。
穏やかなピアノの音が語りかけてくる。
何回も繰り返される旋律。とぎれることなくつむがれていく、高い音と低い音。
わたしはじっと耳を傾けて聴いている。いや、聴いているのはわたしじゃない。わたしと視点を共有する、この場にいる誰か、だった。
青年が弾くピアノには聴き覚えがあった。祖母がいつも弾いていたあの曲だ。それを、目の前の青年が演奏している。