【短編集】人魚の島
演奏を終えると、青年は身体ごと向き直って微笑んだ。拍手の音が聞こえる。拍手しているのは、わたし──正確には、わたしが視点を借りている人物だ。
「おまえのためにつくった曲だよ」
照れ臭いのか、青年は頬を朱に染め、上目遣いにわたしを見る。
「どうだった?」
「すてきな曲ね」
と、若い女性の声でわたしが答える。視覚も聴覚も、それ以外の感覚も、彼女の感じているものがそのままわたしにも伝わってくる。胸のうちにわだかまる深い悲しみも、頬を熱くする身体のほてりも、わたしには生々しく感じられる。
「わたしのためにつくってくれたって、本当?」
「もちろんだよ」
「ありがとう。とてもうれしいわ」
青年の笑みが深まる。彼の繊細な指が鍵盤のひとつに置かれている。わたしは、つと腕を伸ばして、彼の指に自分の指を重ねる。鍵盤が沈み、澄んだ単音が響く。音が余韻を残して虚空に溶けていく。
青年がわたしを見上げる。彼の瞳の奥にはいくつもの感情がくすぶっている。わたしは胸に鋭い痛みを覚える。その痛みが、かすれた声となって口をついて出る。
「……行ってしまうの?」
「ああ、もうすぐね。でも、僕は生きて還ってくるよ。だから……」
その先は続かなかった。青年は急に押し黙り、唇をきつくかむ。わたしの手をギュッとにぎりしめ、彼は語気を強める。
「だから、忘れないで、僕のことを」
「忘れないわ、兄さん」
わたしと彼女が同じセリフを口にする。ふたりの声がわたしの耳にはだぶって聞こえた。
わたしは悟る。この青年が誰なのか、を。そして、彼と話している彼女が誰なのか、を。
……そうだったのね。やっとわかった。
いまなら──彼女とそれほど変わらない年齢に成長したいまのわたしなら、理解できる。
わたしが目にしているのは、遠い日の、過去のかけら。わたしが祖母。そして、軍服の青年は祖母の兄。
祖母がいつもあの曲を弾いていたのは、還ってこなかった兄を忘れたくなかったから。
それが彼と交わした約束だったから。
「わたし、いつまでも忘れない」
彼女──祖母は泣いていた。わたしも泣いていた。頬をすべり落ちていく二重の涙は、ひどく重たいものに感じられた。
窓の外は、雪が降っている。
しんしんと、星のようにまたたきながら、かたちも大きさも不揃いな雪の粒が、あとからあとからこぼれ落ちてくる。
不意に現実が立ち戻ってきた。
ハッと我に返る。目をしばたたいた。
柱時計の上のフクロウと目が合う。時を刻む時計の無味乾燥な音がやけに耳につく。
頬に冷たいものを感じる。そっと触ると、指の腹が濡れた。それが自分の涙だと気づいて、ひとり苦笑を洩らす。
鍵盤に目を落とすと、涙の粒がぽつぽつと飛び散っていた。
両手の指を伸ばし、複数の鍵盤を同時に押す。透明感のある音が返ってくる。
その反応に満足して、わたしは微笑む。
鍵盤に散った涙のしずくをハンカチできれいにふきとって指を置き、大きく息を吸う。
このピアノに触れるたび、わたしは祖母との約束を果たすことができる。
いまはそれを強く、とても強く実感している。
「聴いていてね、おばあちゃん……」
ピアノを弾く。
わたしの想いのたけをこめて。
ふと窓に目を向けると、雪はいつの間にかやんでいた。