【短編集】人魚の島
天使のバラード
「お姉ちゃん、天使だよね?」
背後から降りかかってきた、子供の甲高い声。肩越しに振り向く。
わたしをじっと見つめる女の子と目が合った。
病院の長い廊下。速足で行き交う白衣の医師と看護師。手すりにつかまって歩く患者。蛍光灯の淡白な照明が、灰色のリノリウムの床をべったりと濡らしている。
声をかけてきた女の子は六、七歳ぐらい。テディベアがプリントされた黄色のパジャマを着ている。
ツインテールに結んだ髪。つぶらな黒い瞳。かわいらしい顔立ちだが、頬の肉は薄く、顔色も青白い。パジャマの袖からのぞく腕も枯れ枝みたいに細かった。
女の子の横には母親とおぼしき女性が付き添っていた。困惑の表情で女の子とわたしを交互に見比べている。
「天使でしょ?」
女の子が繰り返す。ひび割れた唇が笑みを結ぶ。
「ヘンなことを言わないの」
母親がささやくような声でたしなめる。
いつものわたしなら女の子を無視して、そのまま立ち去っていたかもしれない。そうしなかったのは、腐臭にも似た邪気を彼女から感じたからだ。
──やっと見つけた。
わたしは微笑んで、女の子と母親のそばまで近寄る。腰をかがめ、子供と目線の高さを合わせた。
「わたしが天使だなんて、どうしてそう思うの?」
「だって、お姉ちゃん、人間じゃないよね?」
「沙綾(さあや)」
さっきよりもいくぶん強い調子で母親がしかる。沙綾と呼ばれた女の子は、母親の叱声を意に介さない。強い輝きを宿したふたつの瞳が、まっすぐにわたしを射抜く。
「お姉ちゃん、天国から来たの?」
「ううん。そうじゃないのよ」
わたしはゆっくりと首を横に振る。
けれども、沙綾の言葉の半分は真実を言い当てていた。
そう。
わたしは人間じゃない。
ある意味、天使と似ているかもしれないが、天使でもない。
人間の少女の姿を借りているが、わたしは死神だ。
死んだあともさまよい続ける亡者の魂を狩るために、わたしはこの世界にとどまっている。
沙綾はひとしきりしゃべったあと、疲れが出たのか、すやすやと寝入ってしまった。
病室はさまざまな種類の花でふんだんに飾られていた。赤、青、黄色、紫、ピンク、オレンジ色──実用本位の白っぽい部屋にいろんな色彩があふれている。薬品の刺激臭と入り混じった花の香りが濃い。ベッドの右横に置かれた腰丈(こしたけ)のラックには、大きさも色も不揃いなテディベアたちが横一列に並んでいる。
「沙綾はお花が好きなんです」
母親は小さく笑ってベッドぎわのサイドテーブルに置かれた花瓶の位置をずらし、そこに新入りのテディベア──真っ白で、黒い大きな目をしたぬいぐるみを座らせる。今日の午前中、父方の伯父が見舞いに来たときに置いていったものだと沙綾が言っていた。
八畳ほどの広さの病室はひとり部屋で、沙綾のほかに患者はいない。子供の背丈よりもずっとサイズの大きいベッドが部屋の真ん中に据えられ、その周囲を背もたれのない六個の丸椅子が囲んでいる。無骨なモニターの群れと薄黄色の薬液がつまった点滴。天井からつりさがった、虹と同じ色の千羽鶴。そして、窓ぎわに置かれた朱色のランドセル。
寝入る前のおしゃべりで沙綾が話してくれた。
「あのランドセルはおじいちゃんがプレゼントしてくれたの」
それから、急に表情を曇らせて、
「でもね、ずっと入院してるから、あんまり学校へ行ってないんだ……」
千羽鶴は、学校の先生とクラスのみんなが折ってくれたものだ。千羽鶴に添えられた短冊には、たどたどしいひらがなで「はやく びょうきを なおしてね」と書かれている。
ベッドのなかで眠る少女の枕元には、チョコレート色の小柄なテディベアが添い寝していた。汚れが目立つのは、それがお気に入りだからだろう。
「沙綾ちゃん、テディベアが大好きなんですね」
「ええ。最近はお花よりも気に入っているみたいで……。幼稚園のときはそんなに興味を示さなかったんですけど、隣の病室にいた沙綾のお友達が……」
母親はそこで言葉を呑みこみ、花がしおれてきた花瓶をやおら持ちあげた。
「すみません、ちょっとお花を取り替えてきますね」
「はい」
母親が病室から出て行く。わたしと沙綾が残される。
丸椅子をベッドの近くに寄せて浅く腰かけ、規則的な寝息をたてている少女の顔をのぞきこむ。
血の気の薄い面差しには、うっすらと笑みの残滓がたゆたっていた。
楽しい夢でも見ているのかもしれない。ランドセルをしょって、元気よく学校へ行く夢とかを。
わたしを半強制的に病室へ連行した沙綾は、天使に会えたと信じて疑わなかった。違うと何度否定しても、彼女はいっこうに納得しない。
「だって、このお姉ちゃんは人間じゃないんだよ! ホンモノの天使なんだってば!」
一時間ほど前、回診に来た主治医と看護師にもそう訴えた。主治医の先生はもちろん本気にしたりしない。苦笑して受け流す。大人が誰も信じてくれないので、看護師が優しい声でなだめても、沙綾は頬をふくらませてむくれるばかりだ。看護師が困り果てた目で助け舟を求めてくるので、仕方なく、わたしは沙綾にそっと耳打ちする。
「わたしが天使だってことはほかのひとにはナイショなのよ。だから、ママにも先生にも黙っていてね。わかった?」
沙綾は目をパチクリさせてわたしを見つめる。わたしが目配せすると、やっと得心したらしく、顔をほころばせる。
主治医と看護師が退室すると、少女は堰を切ったようにしゃべりまくった。
家族、近くに住んでいる祖父母、学校の友達と先生、お医者さんと看護師、何回経験しても好きになれない検査、テレビ……。将来はお医者さんになりたいの、と真顔で語る。どうして、と訊くと、病気のひとを元気にしてあげたいから──率直な答えが返ってくる。
沙綾は自分の病名を知らない。聞いても、小学一年の彼女に憶えられるような名前ではなかった。でも、心臓が悪いらしい、とはわかっている。生まれつきの病気だった。
母親は黙って傍観していた。ときおり言葉を補ったり、相槌を打ったりして、会話の隙間を埋めていく。沙綾には三つ年上の姉がいる。病気とは無縁の、元気いっぱいな姉のことを話す彼女の口調には、羨望と嫉妬が見え隠れしている。母親は痛みをこらえるような顔つきでそれを聞いていた。
七年にも満たない人生の断片をすべて吐きつくすと、沙綾の関心はわたしに向かう。
話してよ、と促されても、それほど話すことは多くない。わたしはこの世界にとってかりそめの客(まろうど)だ。家族も友人もいないし、人間であればそれを人生と呼ぶのであろう、過去から未来への時間の流れさえ、わたしには欠けている。話題はすぐにつきてしまう。
「お姉ちゃん、恋人はいないの?」
おませなその質問に、わたしは淡々と応じる。
「いないわ」
「なんで? お姉ちゃん、とっても美人だよ」
「ひとを好きになってはいけないの。それが理由よ」
沙綾は目を瞠(みは)る。枕からわずかに頭を起こして、
「それって、お姉ちゃんが天使だから……」
わたしは唇に人差指を立てて、その先の言葉を封じる。母親が眉をひそめて沙綾を見やる。