【短編集】人魚の島
ハルはライトの数奇な旅の道のりを聞きたがった。ライトは話した。スクラップにされる寸前に小惑星の鉱山主に買い取られ、空気も光もない場所で岩盤と格闘したこと。そのあと鉱山が閉山となり、小惑星の上に放置されたままになっていたが、火星の宇宙船が彼を拾ってくれたこと。老夫婦が彼を買ってくれて、オリンポス山のふもとの農場で働いたこと。いくら話しても言葉はつきなかった。ライトの語る物語にハルはじっと耳を傾ける。そのしわ深い顔がほころぶと、ハルはいつも決まって最後にこう言うのだ。
「世界というのは実によくできてるんだよ、ライト」
ライトはハルといっしょに暮した。ひとりの老人の身の周りを世話するのはそれほど難儀な仕事ではない。ふたりはたいがいおしゃべりして、ときには昔ながらのボードゲームに興じた。猛烈な砂嵐が来襲すると小さな声で話し、雄大な夕焼けが空を染めると大きな声で話した。夜になると数え切れないほどたくさんの星が空の高みからささやいてくる。それをながめていると、あっという間に時間が過ぎていく。
ハルは流れ星を見つけるたび、それをつかまえようと枯れ木のような腕を伸ばす。グッとにぎったこぶしを開いても、そこには星屑のかけらもない。それでも、ハルの目は生き生きと輝いている。
「流れ星をつかまえたぞ、ライト」
「流れ星をつかまえることは誰にもできません、ハルさま」
ハルはすりきれた笑い声を洩らし、金属製の友達の肩に触れる。
「私にはできるんだよ。きっと、おまえもできるようになるさ」
それはなんとすばらしい日々であったことだろう!
しかし、これまでの日々が常にそうであったように、ハルと暮らした日々にも終わりがやってきた。
老いさらばえたハルの肉体は、火星にやってくるずっと以前から生命力を徐々にすり減らしてきたのだ。わずかに残された生命のかけらも、ハルのひからびた身体から蒸発しようとしていた。
古びた紙のようなハルの肌に灰色の斑点がこびりついたのがその始まりだった。その正体は火星に特有の、毒性の強いカビである。ハルはベッドから起きあがれなくなった。老人の呼吸が浅く、緩慢なものとなり、脈がしだいに弱まっていく。医者を呼ぼうとしたライトをハルは強い口調で制止した。
「ですが、ハルさま、このままでは……」
「私は死ぬだろうな」
ライトが決して口にできない言葉をハルが洩らす。ライトは困惑したように押し黙る。ハルは口許をゆがめて、かろうじて微笑みと判別できる表情を浮かべた。
「いいんだ、ライト。私はもう充分に生きたよ。息子にも知らせなくていい。おまえがそばにいてくれるだけでかまわない」
「病気はきっと治ります、ハルさま」
ハルはライトにも笑顔とわかる顔つきになった。そして、苦しげな呼気とともに言った。
「ありがとう、私の友達……」
ハルが息を引き取ったのは砂嵐が去ったあとの、満天に星がひしめく静かな夜だった。
ハルの顔つきは穏やかだった。苦しみの痕跡もなく、微笑の残滓がまだ口許に残っている。
ライトは動かなくなったハルのそばから離れようとしない。待っていれば、ハルはそのうち起きだすだろう──ライト自身にも定かではない彼の一部がそう願っていたのかもしれない。しかし、ハルが二度と目を開くことはないとライトにはわかっていた。
ライトにとって「死」は散文的な現象だった。それを有機生命体の生化学反応の終焉、と定義づけるのは簡単だ。簡単でないのは、ハルと交わした約束の行方だった。ハルといつまでも友達でいる、と誓ったのである。いま、その誓約は宙ぶらりんとなっていた。
思考回路が弾きだしたいくつもの判断がライトを揺さぶった。そのどれもが最終的な結論からはほど遠く、どこにも正解はないように思えた。
ライトは身動きしなかった。夜が更けていくと、星たちの無音の呼び声がライトの電子頭脳の注意を惹きつけた。
ライトは家の外に出た。ずっと昔、地球の都会で見上げたときよりも何倍も多い星が、闇の色をたたえた空のなかでさんざめいていた。白い星、黄色い星、赤い星、青い星──明るい星と暗い星。名前もない無数の星が火星の薄い大気を透かしてまたたいている。
流れ星が天空をふたつに割った。流れ星はまるでレースを繰り広げる宇宙艇のように猛スピードで星空を駆け抜けた。
流れ星をつかみとろうとしてライトはアームを伸ばした。指をにぎって、開く。流れ星は無情にも逃げていった。
ライトは流れ星をつかまえようと何度も星空にアームを伸ばした。
いまの自分なら、流れ星をつかまえられそうな気がしていた。