【短編集】人魚の島
老夫婦の息子が火星に帰ってきた。そして、オリンポス山の近くではなく、もっと別の場所で新しい農場を開こう、と両親に持ちかけてきたのだ。
「親不孝者! いまになって帰ってきおって……」
老人の口から際限なく吐きだされる悪態は痛烈だったが、その面差しはいたって平穏だった。息子といっしょに仕事ができる喜びを老人は全身で味わっていた。すっかり足腰が弱くなり、ベッドで寝たきりになっていた老婦人も、久しく会っていなかった息子の顔を見て感涙にむせんだ。
老夫婦の身の振り方は最初から結論が決まっていたのだ。
オリンポス山のふもとの農場は売りに出され、火星開拓公社の農業部門が買い取った。農場の付属物だったライトは、その買い物のなかに含まれていなかった。資金力に余裕のある火星開拓公社は、豊富なロボット労働者を抱えていたのである。半世紀以上も前に製造された中古の家庭用ロボットの居場所はどこにもなかった。もちろん、老夫婦の息子が始めようとしている農場でも無用の長物だった。
「すまないな、おまえ」
老人は心底申し訳なさそうな顔をしてライトのボディを軽くたたいた。
「おまえの次のマスターが早く見つかるといいな」
「はい、マスター」
ライトはそう答えた。そうするのがもっとも適当であるように彼の思考回路は考えたのだ。絶望や後悔はライトにとって無縁の感情だった。なんといっても、ライトは家庭用のロボットなのだから。
どこにも引き取り手のいなかったライトは、火星市のバザールに再度陳列されることとなった。
ライトを引き取った業者もロボットの商品価値に疑問を持っていたのに違いない。
ライトにつけられた値段はタダ同然だった。金属のかたまりとして査定したとしても、もう少しいい値段がついていただろう。
ライトは買い手がつくのをひたすら待ち続けた。それは、彼を売りに出している業者も同様だった。何人か奇特な人間がライトに興味を示し、業者と言葉を交わしたが、交渉が成立するまでにはいたらなかった。そろそろお払い箱にしようか、と業者が真剣に考えるころになって、ライトを買いたい、という人間が現れた。
それは不健康な顔色の老人だった。落ちくぼんだ目がたなざらしになっていたライトの上にとまり、抜け落ちた眉毛がわずかに持ちあがる。業者との折衝は短時間で終わった。いまさら値切りようのない値段だったし、ライトを処分したかった業者にとっては渡りに船だったのである。
ライトは老人が運転する六輪の走行車に乗せられ、火星市からずっと離れた場所にある彼の住宅へ運ばれた。そこは乾いた大地の真ん中にぽつんと置かれたかまぼこ型の建物で、周囲には見渡す限りどんな人工物もなかった。老人はここにひとりで住んでいるのだ。
老人はライトを家のなかに入れると、目尻を下げて、ロボットの傷だらけのボディをなでまわした。
「これは懐かしいな。ゼネラル・ロボット社のR型家庭用ロボットだ!」
老人は苦しそうに咳きこんだ。心配になったライトがアームを伸ばす。老人は両手でそれをしっかりとにぎり、深呼吸を繰り返した。弱々しく微笑んで、
「子供のとき、家に家庭用ロボットがいてね。私はそいつと友達になったんだ」
老人はライトのアームを手放すと、ロボットの背後に回りこんで、製造番号が刻まれたプレートを探した。摩耗していたが、まだ読み取ることができるプレートの製造番号を目で追っていく。すると、老人の顔に驚愕の表情が広がっていった。
「まさか、こんなことが……」
老人はライトの正面に立った。ひび割れた頬にいく筋もの涙が転がり落ちていく。唇がわななき、はっきりとした語句を口にするのに老人はひどく苦労した。
「ライト……。おまえはライトなのか?」
「はい、マスター」
ライトは何十年ものあいだ、呼ばれることのなかったその名前に反応した。
「ワタシの名前はライトです」
「おお……」
老人は倒れるようにしてライトの胴体にしがみつき、ロボットの冷たい外板を涙の粒で濡らした。
「私だよ、ライト。私はハルだ。すっかり老いぼれてしまったが……私のことを憶えてるかい?」
「もちろんです、ハルさま。あなたのことを忘れたことはありません」
「ライト……」
老人は呼吸をつまらせた。しなびたその肉体のどこにそれだけの水分があったのだろう──そう思わせるほど、老人の涙はとめどもなく流れ落ちた。
「ライト、教えてくれ。私たちはいまでも友達なのか?」
「はい、ハルさま。ワタシはハルさまのお友達です」
ライトは即答する。その語調にためらいがなかったのはライトがそのようにつくられていたからだろう。それでも、老人にとってライトの返事は、彼が心の奥底で抱えていたうしろめたい気持ちを払拭させるのに充分な効果があった。
「私を許してくれるか? 友達だといっておきながら、おまえを捨ててしまったこの私を?」
「ワタシは捨てられていません。捨てられていないから、こうしてハルさまのおそばにいるのです」
「ありがとう、ライト……」
老人はさびついた唇に笑みを浮かべる。その笑みのかたちは、ライトが記憶している子供のころのハルと同じかたちをしていた。目の前にいる老人の笑顔は、ライトが練習を重ねて上手に描けるようになった少年の似顔絵にそっくりだった。
外見が変貌していたとしても、ハルの魂は子供のときとなんら変わらないように思えた。けれども、ライトに「魂」という概念は理解できない。ライトに理解できるのはごく単純な事実だ。
新しいマスターが遠い昔に彼が子守りをした少年と同じ人物だ、ということ。
いまでもあの約束を忘れているわけではない、ということ。
そう、ライトはハルの友達なのだ。これからも、ずっと……。
ハルとライトは互いの空白だった時間を埋めるかのように、これまでのことを語った。
ハルは二十代の後半に職場で知り合った女性と結婚した。子供はふたり。ひとりは地球で弁護士の仕事をしている。そして、もうひとりは土星の探検隊に参加して、それっきり帰ってこなかった。
ハルの伴侶だった女性は五年前に病死した。ほとんどの病気を克服し、寿命が大幅に伸びた時代であっても、治療が不可能な難病は依然として存在するのだ。妻の死後、ハルは火星の移民団のひとりとなって、この赤い惑星にやってきた。特に火星でやりたい仕事があったわけではない。ただ、余生を静かな場所で暮らしたかっただけだ。地球はもう静かな場所であるとはいえなかった。
「私はもう長くないだろう」
ハルはそれがお気に入りの安楽椅子に深く身を沈めて、
「自分の人生に悔いはない。すばらしい一生だったよ。家族にも、仲間にも、幸運にも恵まれた。それに、いまはおまえが私のそばにいてくれる。私はとても満足してるよ」