【短編集】人魚の島
5
海賊の意図が読めず、おれは目をしばたたく。ヤツは銃を上下に振って、おれに「立て」と命じる。
「エア・ロックまでおまえの足で歩いていけ。お望みどおり、生きたまま宇宙葬にしてやる」
おれは数秒間、海賊をにらみつけてから、ノロノロと起きあがる。両手をしばられたままだとうまくバランスがとれなくて、立ちあがるのも容易ではない。片膝を立てた姿勢から腰を浮かせて、ようやく二本の足でまっすぐに立った。
「おまえが先に歩け。少しでも抵抗したら殺す。ちょっとでも長生きしたかったらさっさと歩くんだな」
海賊が銃でドアの方を示す。
おれは黙ってその指示に従った。おれのすぐ後ろに海賊がつく。目には見えないが、おれの背中を狙っているニードルガンの銃口が肌で感じられた。
頭がクラクラするような緊張と恐怖がおれの胸のうちで膨張していく。踏みしめる一歩一歩が、おれの全身の骨格と筋肉にジンとしびれるような衝撃を与えた。いまにも破裂してしまうのではないかと思えるほど、心臓がドクドクと脈打っている。血中に放出されるアドレナリンの効果をいまほどはっきりと意識したことはなかった。
海賊を排除したところで、探査船のコンピューターがジャッカーに乗っ取られている以上、おれが事態を打開する可能性はほとんどゼロに近い。それでも、このまま黙って殺されるつもりはなかった。
この野郎だけは絶対に許せない! こんなところで殉職してたまるか!
おれを感知して、ドアが左右に開く。この先は船尾まで一直線の廊下が続いている。
いまここで乾坤一擲(けんこんいってき)の行動を起こすか、それとも移動中の廊下で起死回生のチャンスが到来するのを待つか──
おれが判断をためらったそのとき──
突然、ドアのそばの天井に設置されたスプリンクラーがものすごい勢いで消火剤を噴霧しはじめた。
海賊が叫び声をあげる。床になにか重いものが落ちる音を聞いた。驚いたおれは肩越しに振り向く。
粘性の高い、ドロドロとした白い消火剤は、海賊の顔面をモロに直撃していた。開いた口に消火剤が流れこんできて、ヤツは苦しそうに激しく咳こんでいる。目も消火剤にふさがれて見えていない。
おれの頭上から聞き慣れた女性の声が降ってきた。
「いまです! 手錠を外しますから、海賊の武器を奪ってください!」
この声って……アイ? おまえなのか?
おれがあっけにとられていると、手首の手錠がカチャリと音をたてて割れ、床に落ちた。
なにが起こっているんだ、などとは考えなかった。おれは機械的に反応する。
身体ごと、海賊に向き直る。なるべく足音を殺してヤツに近寄っていく。
海賊は宇宙服のヘルメットを取り落としていた。おれはかがんでヘルメットを拾いあげる。
海賊はヨロヨロとあとずさりしながら、めくらめっぽうにニードルガンを発砲する。
おれはあわてて床に伏せた。おれの頭上を危険きわまりない白い旋風が飛びすぎていく。紙と紙がこすれるような乾いた音がおれの背後で連続して聞こえた。
消火剤のシャワーはまだ続いていた。海賊は消火剤が身体に降りかからない位置まで後退し、おれがいつも座っているシートの背もたれに背中をつけた。銃を持っていない左手で顔をしきりにこすり、視界を確保する。消火剤が目に入って痛そうな顔をしている。
海賊がニードルガンの銃口をおれに向ける。真っ赤に充血したヤツの灰色の両眼がおれを直視する。ヤツとおれとのあいだの距離は三メートルもない。こんな至近距離で撃たれたら、おれは確実にミンチのかたまりになってしまう。
「マスター!」
アイの短い叫び声がおれの耳から入ってきて、頭蓋の内部を揺さぶる。
床に伏せたまま、おれが手にしたヘルメットを海賊に投げつけるのと、海賊がニードルガンを発砲するのとが、ほとんど同時だった。
剣呑な針を浴びて、ヘルメットの軌道がわずかに変化する。ヘルメットは海賊の頭上を飛びこえ、予備シートのなかにドサリと落ちた。
海賊が野獣のようなおたけびをあげる。おれに向かって一歩踏みだし、床を濡らした消火剤に足をとられてバランスを崩す。ヤツは派手に転んで、背中から床に落ちた。
おれは一挙動で立ちあがる。海賊に飛びかかった。一気にヤツとの距離をつめる。海賊の鼻づらめがけて右の爪先を蹴りだす。
だが、そこは海賊。一対一の格闘の経験はおれなんかよりもずっと豊富だ。とっさに左腕で顔をかばい、落ちてきたおれの爪先を受け止めた。鈍い感触が靴の先端から伝わってくる。海賊が痛みに息をつまらせる。
海賊の右手が動いて、ニードルガンがおれを狙う。ヤツが黄ばんだ歯をむきだす。
「あぶない!」
アイが甲高い声で絶叫した。
身体が軽くなって、両足が床から離れる。宙に浮きはじめたおれの肩の上をニードルガンの白い奔流が流れすぎていった。
船内重力がなくなっている! いまの船内は無重力状態だ!
海賊が目を丸くする。立ちあがろうとして弾みをつけてしまい、腹を中心点にしてクルクルと横方向に回転をはじめた。そのまま空中に浮かびあがる。
海賊は卑猥な言葉を吐きちらした。回転を止めようと躍起になるが、周囲に身体を固定するものがないのでうまくいっていない。
海賊の後ろで、固定されていなかったモノがフワフワと空中を舞っている。さっきまでおれがコーヒーを飲んでいたマグも、海賊の宇宙服のヘルメットも、まるで小惑星のようにゆっくりと回転しながら、メインディスプレイの近くを漂っている。
海賊のぶざまな姿を笑い飛ばしてやりたかったが、いまはそれどころじゃなかった。ヤツのように回転こそしていないが、しっかりとつかまるものがないのはおれも同じだ。
おれはドア付近の天井近くまで漂っていって、空中で体勢を立て直そうと用心深く身体をひねる。そのとき、とうとつに船内重力が戻った。
重力の向きが違う! いつもと上下が逆だ!
天井に向かって、おれと海賊は落ちていく。
おれの周りにはなにも障害物がなかったが、海賊の方は違った。天井から突きだしているエアコンの角にヤツは激しく衝突する。
海賊の人工皮膚に覆われた頭蓋とエアコンの外板がぶつかって、大きな音をたてた。海賊が奇妙な声を洩らす。
おれはとっさに膝を折って、天井に着地する。
「重力を正常に戻します! 気をつけて!」
またもや、アイの叫び声。
次の瞬間、船内重力の上下が正常に戻った。今度は床に向かって落ちる。
おれはギョッとする。落ちながら空中で一回転して、とっさに膝を曲げる。着地するときに膝頭をイヤというほど床にぶつけたが、どうにか転ばずにすんだ。
くぐもった鈍い音がする。そちらへ目をやると、予備シートの背もたれに激突した海賊がバウンドしながら床に落ちるところだった。マグが海賊のおでこを直撃して床に転がる。ニードルガンはエアコンとぶつかったときに手放してしまったようで、持っていない。
「マスター!」
「アイか?」
「どこでもいいから、しっかりとつかまってください。絶対に手を放さないで!」
アイの切迫した口調がおれの全身の筋肉に瞬発力を吹きこんだ。
おれは走った。ドアのすぐ横に手すりがある。そこに両手でとりすがる。