【短編集】人魚の島
「村上君……」
「僕はここで彼女を待つ! 彼女と約束したんだ!」
だから、十年ものあいだ、村上君はこの桜の樹の下で──おそらく、死んでからずっと同じ場所で待ち続けていたのだろう。彼女との約束はいつか果たされる、と信じて。その強い想いが、彼の魂を自縄自縛(じじょうじばく)している。
「彼女はもう来ないのよ。村上君が死んで……」
「僕はここにいるんだ! 僕にかまわないでくれ!」
わたしはため息を洩らす。説得なんて、本当は必要ない。村上君に最初から選択肢はないのだから。どんなに抵抗されたとしても、わたしは彼を連れていくつもりでいる。それでも、仕事を事務的に処理する気にはどうしてもなれない。
話すつもりはなかったけれど、もうひとつの世界へ行けばどのみち村上君にも知られてしまうことだ。ここで教えてあげても害にはならないし、彼も少しは得心するかもしれない。
「村上君、ここで待っていても彼女が来ないって意味、あなたが死んでいるから、というだけじゃないの」
「……なんだって?」
「彼女は三日前に亡くなったの。病院でね。白血病だった」
村上君の口が動いたけれど、声はまったく出てこない。呆然とわたしの顔を見返す。
「あなたがあちらの世界にいないってわかったのも彼女のおかげなのよ。今度は彼女があなたを待ってる。だから、お願い、わたしといっしょに来て」
村上君はなにも言わなかった。わたしに促されて、ゆっくりと右手を持ちあげる。一瞬、躊躇してから、わたしの手をしっかりとつかむ。冷たく、乾いた手。でも、不快じゃない。
厄介だけれど、こんなわたしにも感情はある。同情も、悲しみも、憐れみも、わたしのなかにはちゃんと存在している。
わたしの胸の奥底で渦巻いている不活性なかたまりは、まさにそうした感情だ。
それさえも、いまのわたしには不快じゃない。
そして、わたしは死神から普通の少女に戻る。
わたしは変わり種の死神だ。わたしみたいに、人間たちに混じって彼らといっしょに暮らしながら仕事をこなす死神はそれほど数が多いわけではない。ましてや、普段は女子高校生を演じている死神なんて、ひょっとしたらわたしだけかもしれない。
放課後にわたしはひとり、桜の大樹の下で思索にふける。
陽気な声が上から降りかかってきて顔を仰向けると、講堂と図書館を結ぶ二階の渡り廊下の窓から佐々木君が頭を突きだし、わたしに手を振っている。
わたしが手を振って応えると、あっという間に佐々木君の頬が紅潮する。相変わらず彼の反応はわかりやすい。
「明日、その桜の樹の下で……」
佐々木君は両手でメガホンをつくって大声を出したが、これでは要らぬ注目を集めてしまうと気づいたのだろう、そのあとはずっと小さな声になって、
「……返事を聞きたいんだけど、いいかな?」
佐々木君は顔を朱に染め、いくつもの心情がないまぜになった目でわたしを射抜く。
わたしはこっくりとうなずいて、微笑む。彼は表情をなごませ、「じゃあ、また明日!」と言い残して頭を引っこめ、わたしの視界から消える。
わたしは嘆息する。昼下がりの強い陽射しを浴びてそそり立つかたわらの古木を振り仰ぐ。
濃密な葉むらを透かして降りそそぐ木洩れ日がぬくぬくと頬に温かい。深く息を吸うと、古びた樹の香りが鼻につく。まるで大勢の人間がひそひそと話す声のような、梢と梢のこすれるざわめきがわたしの耳底を満たす。
本当のところ、思い悩む必要なんてどこにもないのだ。なぜなら、佐々木君は彼が住むマンションのベランダから転落して、今日中に死ぬ運命にあるのだから。
佐々木君がわたしに興味を惹かれたのだとしたら、それは異性への関心などではなく、死に近いわたしの体臭みたいなものを敏感に感じ取った結果なのではなかろうか──わたしはそう推測している。
佐々木君はおのれの死が間近にせまっていることを無意識のうちに悟っているのかもしれない。でも、わたしは彼になにも教えてあげることができない。彼に死が訪れるその瞬間まで傍観しているしかないのだ。それも、もどかしい、どうにもならない煩悶を心のなかに抱えこんだまま……。
圧倒的な生命力で死を拒み続ける桜の巨樹を仰ぎ見ながら、わたしは胸にわだかまるやるせない想いを言葉にして誰にともなく問いかける。佐々木君は死んだら村上君のようにこの桜の樹の下でわたしを待ち続けるのだろうか、と。
目を閉じ、右手を伸ばして桜の樹の木肌に触れる。そうしていると、桜の老木が慰めてくれるような気がして、気持ちがとても安らぐ。
わたしは思う──たぶん、佐々木君は待っていてくれるだろう。
わたしが迎えに行くそのときまで、ずっと、いつまでも……。