【短編集】人魚の島
村上君は返事をしなかった。気が優しそうな彼の面相に警戒の色が浮かぶ。しばらくのあいだ、わたしをジロジロと無遠慮に(異性に対する好奇心とは無縁の目つきで)観察していたが、不意にプイと横を向き、制服のズボンのポケットに両手を突っこんで、桜の樹の幹に背中をもたせかける。
桜の樹の下で男の子と向き合っていると、佐々木君から告白されたあの瞬間が脳裏に思い浮かぶ。わたしは首を振って、雑念を頭から追いだす。
熱気をはらんだ強い風が校庭の方から吹きつけて、背中に垂れるわたしの髪とセーラー服のプリーツスカートの裾を乱す。わたしは散らばる髪を手で押さえ、乱暴な風の息吹に首を縮める。
村上君はもうわたしに興味がないようだ。あたかも鼓動でも聞き取ろうとするかのように桜の樹の幹に片耳を押しあて、半分目を閉じている。露骨に無視されて、わたしはムッとする。
「ねぇ、教えてよ。こんなところでなにをしてるの?」
問いを重ねると、村上君の目がけだるげに動いて、わたしを横目でうかがう。
「うるさいな。僕のことは放っておいてよ。きみがいると目障りだ。どっかに行ってくれないか」
カチンときたわたしは、辛辣な皮肉を返そうとしてすんでのところで思いとどまり、喉元まで出かかった呼気は行き場を失って、ざらついた吐息となる。一回、深呼吸。ちょっとは気分が落ち着く。けれども、わたしの次のセリフはどうしても意地悪な言い方になってしまう。
「村上君、もしかしたら彼女のこと、待ってるんじゃないの? 違う?」
村上君の反応は劇的だった。桜の樹の幹から背中を離し、わたしに向かって大きく一歩踏みだす。肩を怒らせ、憤怒の形相(ぎょうそう)でわたしをにらみつける。
「きみには関係ないだろ!」
怒鳴られたぐらいでわたしはひるんだりしない。突き刺すような強いまなざしを正面から浴びても、にっこりと微笑む余裕がある。相手によってはいくつもの意味に解釈できる、境界のあいまいな笑みだ。それが彼の怒りを倍加させる。
「僕をからかってるのか! なんで笑ってる?」
「わたし、あなたのことはなんでも知ってるのよ、村上君」
わたしをねめつけたまま、村上君は聞こえよがしにフンと鼻を鳴らす。わたしが笑みを深めると、そっぽを向いて落ち着かなげに目線の先を宙に遊ばせる。わたしの思わせぶりな態度に当惑しているのかもしれない。
「……僕のなにを知ってるというんだ、きみは?」
「彼女のことよ。村上君もわかってるんでしょ?」
わたしは軽く唇をかむ。残酷な事実を口にするのはためらわれた。それでも、いくばくかの勇気を踏み台にして、口調を変えずに言を継ぐ。
「彼女はもう来ない。待っていてもムダなの。だって、村上君は……」
「言うな!」
村上君はヒステリックに叫ぶ。にぎりしめた彼の右手が振りあげられ、中途半端な高さでその動作が凝固する。
わたしは村上君の目の奥をのぞきこむ。そのとき、自分がどんな顔をしていたのか、わたし自身にもよくわからない。もしかしたら、いまにも泣きそうな顔つきをしていたのかもしれない。そんなの、わたしにはちっとも似合わないけれど。
「もうやめようよ」
わたしはささやくような声で、
「ここで彼女を待っていてもなんにもならないわ」
村上君は表情を消す。振りあげたこぶしがゆっくりと下ろされる。脱色した彼の瞳が、わたしのそれと向き合う。わたしはかぶりを振る。彼はためていた息を吐きだす。
村上君は幹の根元にクタクタと座りこんだ。立てた膝を両腕で抱えこむ。
わたしも村上君も押し黙る。グラウンドの方から届く甲高い歓声が、無味乾燥な沈黙の間隙を埋めていく。ほこりっぽい風が、桜の樹の枝葉をそっと揺する。
ややあって、村上君がおもむろに口を開く。光のない双眸は、そこにすべての疑問に対する解答が記されてでもいるかのように、目の前の地面をさまよっている。
「この桜の樹の下で彼女に告白したんだ……」
わたしは黙って村上君の言葉に耳を傾ける。わたしに語りかける、というよりも、ひとり言をつぶやくような調子で彼は淡々と話す。
「彼女も僕のことを好きだと言ってくれたよ。とてもうれしかった。僕に手編みのマフラーをプレゼントしたいって……あの日、ここで彼女と会う約束をしてたんだ」
村上君は膝に組んだ指をほどき、顔の前に両手を持ちあげる。手がわなないている。それが全身の筋肉に伝播して、ブルブルと身震いする。
「それなのに、僕は……」
そこから先は喉につまって出てこない。わたしが彼の代わりに告げる。真実を、簡潔に。
「あなたは登校する途中、交通事故に遭って死んだのよ。十年前に……」
村上君は鋭く息を呑む。まなじりを見開き、信じられない、と言いたげな表情で自分の顔面を、胴体を、四肢を、小刻みに震える指で順番にまさぐる。口を開いても言葉は舌先で凍りついてしまい、だらりと伸びた舌がせわしげに唇をなめる。救いを求めるようにわたしを見上げるが、断固としたわたしのまなざしとぶつかって、苦しげなうめき声を洩らす。
「村上君は死んだの」
わたしの宣告は氷のように冷たく、無慈悲で、残忍だ。
「いまのあなたは魂だけの存在──亡霊よ」
とうとつに村上君は笑いだす。力のない、乾いた笑い方だ。両手で顔を覆い、肩を揺すってひとしきり笑う。
わたしは目をつぶる。心の奥底で対流する感情を整理するのに少し時間が必要だった。いつまで経っても自分の役割に慣れるということがない。きっと、この仕事に向いていないのだろうと心底思う。そうであっても、後悔は無意味だし、怠慢も忌避も許されない。
わたしは自分に課せられた責務をまっとうするだけだ。わたしはそのために、いま、ここにいる。
右手を村上君に差し伸べる。それを彼は指の隙間からこわごわとのぞき見ている。
「……なんのつもりだよ?」
「わたしといっしょに行こう」
村上君は「どこへ?」とは訊き返さなかった。たぶん、言外の意味をくみとったのだろう。
まるで毒蛇かなにかのようにわたしの右手を恐怖の面持ちで村上君は凝視する。「ヒッ」と短く叫んで後ろに手をつき、尻を地面につけたままあとずさる。おびえた目でわたしの顔と右手を交互に見くらべる。
「……きみは何者なんだ?」
村上君は息をあえがせる。その質問に対する答えは用意していた。わたしと会って彼が最初に発する質問はそれだと思っていたから。
「わたし? わたしはこれでも死神なのよ。こんな姿だから、そうは見えないと思うけれど」
わたしは自嘲気味の苦笑を洩らす。村上君はうすうすわたしの正体に感づいていたのに違いない。あからさまに驚いたりはしなかったが、ますます頬の筋肉が不自然な形に凝り固まっていく。
「死神といってもちょっと特殊でね。死んでもなかなかあちらの世界に行けない魂を召喚するのがわたしの仕事なの」
「僕を……あの世へ連れていくというのか?」
「そうよ。ここはあなたがいるべき世界じゃない。あなたの未練が魂を地上に縛りつけてる。それは決して正しいことじゃないわ」
「イヤだ!」
村上君は激しく首を横に振る。彼のなかで激情が急速にふくれあがって、恐怖をしだいに圧倒していくのがわたしにも察知できた。
「僕は行かない!」