【短編集】人魚の島
名もなき悪魔の憂鬱
あたしは悪魔である。名前はまだない。
悪魔はある程度、出世しないと名前をもらえないのだ。
だから、魔王でもなんでもないあたしに名前はまだない。でも、いずれは出世して有名になりたいと思っている。
株式会社アクマソリューションコンサルティングという、横文字だらけの会社があたしの勤務先だ。
悪魔の会社に就職したから、あたしは悪魔。世の中、実にシンプルである。
がんばって簿記の資格をとったから事務職を希望したのに、なぜか配属先は営業部第二課。入社式のあと、辞令を受け取ったときはわが目を疑った。悪魔のせせら笑う声が聞こえてきそう、と思ったら、あたしの背後で凶悪な面相の人事部長がゲタゲタと笑っていた。
──いまとなっては、あたしの黒歴史の一部だ。
入社したその日から辛酸をなめる日々が始まった。ただでさえ不向きな職種なのに、直属の上司の田中課長はやたらと仕事に厳しい。
毎日、悪態をつかれる。怒られる。泣かされる。これって絶対、パワハラでしょ。残業だって多いし。
この会社、ブラック企業だ。まちがいない。悪魔だから、当然かもしんないけど。
ここ数百年、悪魔の業界はずっと不景気だ。最近は悪魔の存在を信じていない人間が圧倒的に多い。真夜中の合わせ鏡や魔方陣を使えば誰でも手軽に悪魔を召喚できるのに、需要は年々減りつつある。
会社は数年前にリストラを断行して、全社員の三割にあたる悪魔の首を切った。切られた首は三週間のあいだ、獄門さらし首となり、地獄へ送られたという。恐ろしいハナシだ。
リストラで激減した戦力を補充するため、新入社員の全員が営業に回された。あたしみたいな交渉力ゼロの悪魔が営業部第二課に在籍しているのは、そういう裏の事情があるからだ。
で、入社してからそろそろ三ヶ月が経つけど、あたしはまともな契約をとってきたためしがない。
そもそも、悪魔を呼びだそうとする人間なんて、どう考えてもまともであるはずがない。新入社員だからってことで、簡単そうな仕事しか回ってこないけれど、それにしてもあたしを召喚するお客さまって、そろいもそろってロクでもない連中ばかりだ。
あたしの最初のお客さまは、デブで不潔でブサメンの若い男だった。たとえ相手がイヌやネコであっても、あたしは営業スマイルを忘れない。
「お待たせしました! あなたの寿命と引き換えに、あなたの望みをかなえてあげましょう。あなたの望みはなんですか?」
「ハアハア……悪魔のお姉さん、服を脱いでください!」
「汚物は消毒だーーーーーっ!」
お客さまを完膚なきまでに消毒したら、田中課長にしこたま怒られた。「きさまは何様のつもりだ! お客さまの要求を断るのは百年早い!」って。あたしは泣いた。泣いたけれど、それで課長が許してくれるはずもない。結局、始末書を書かされた。
次にあたしを呼びだしたのは、冴えない中年の男だった。召喚された場所は深夜の墓地。イヤな予感がした。それでも、あたしは営業スマイルを忘れない。
「お待たせしました! あなたの寿命と引き換えに、あなたの望みをかなえてあげましょう。あなたの望みはなんですか?」
「私を生き返らせてくれ」
「…………は?」
そのとき、気づいた。男は幽霊だと。
あたしは男に告げる。おまえはもう死んでいる。取引にならない。
田中課長に報告したら、またもや怒られた。「給料泥棒が! 時間をムダにするな! 相手をよく見てから交渉にあたれ!」って。あたしは泣いた。泣いたけれど、課長は悪魔だから、残忍で冷酷で情け容赦ない。二度目の始末書を書かされた。
三度目にあたしを呼びだしたのは、ヨボヨボの爺さんだった。モニターと点滴に囲まれた病室のベッドに横たわり、あたしを見て静かに微笑んでいる。帰ろうかなって思ったけど、爺さんのはかない笑顔があたしのピュアなハートをわしづかみにした。どんなときも、あたしは営業スマイルを忘れない。
「お待たせしました! あなたの寿命と引き換えに、あなたの望みをかなえてあげましょう。あなたの望みはなんですか?」
「わしは若返りたいのじゃよ。もう一度、若いころに戻って、ナースのユキちゃんと……」
そこから先のセリフはとても書き記せない。いたいけな乙女であるあたしが恥じらうような放送禁止用語がズラズラと並んでいた、と言えばわかってもらえるだろう。
若返ったあとにやりたい、というのがどうしようもないことばかりだけど、条件に不備はないし、問題もなさそう。あたしは爺さんと契約を結び、爺さんの残り少ない寿命と引き換えに彼の肉体を六十年も若返らせた。
爺さん、狂喜乱舞。若返ったら腹筋がボコボコのマッチョで、意外にイケメンな元爺さんは、病室のベッドからそそくさと抜けだし、さっそくナースのユキちゃんを探しにいった。ユキちゃん、無事だといいけど。
ドヤ顔で田中課長に契約書を見せたら、めっちゃ怒鳴られた。「簡単な算数もできないのか! 五年の寿命と引き換えに六十年の寿命を与えたら大赤字だ!」って。あたしは泣いた。泣いたけれど、今度は田中課長だけではなく、その上の佐藤部長からも長々とお説教を喰らった。徹夜で書いた三度目の始末書は、これまでの倍の長さになった。
そして、いま。
あたしは四度目の召喚を受けている。あたしのデスクの上のライトがチカチカと赤く点滅している。コールサインだ。しかも、大至急の。
思わずため息がこぼれる。
悪魔は召喚されたら、とりあえず姿を現さなければならない。あたしに仕事が回されるぐらいだから、今回もきっとロクでもない人間からの呼びだしにちがいない。あたしは憂鬱になる。悪魔をやめたくなった。
田中課長が真っ赤に充血した両眼でギロリとあたしをにらむ。はいはい。わかりました。行けばいいんでしょ、行けば。
呪文を唱えて、魔界と人間界のあいだの障壁を突破する。
現場に出現した。
あたしの営業スマイルが凍りつく。
天井の低い、広い部屋。窓はなく、灯りは壁際のチロチロと燃えるロウソクだけ。三十人ほどの、灰色のローブを着た人間がきちんと整列して、なにやらブツブツとつぶやいている。
あたしが出現した場所には、白い線形で細かい図形が描きこまれていた。
魔方陣だ! それも、悪魔の自由を奪う特殊な魔方陣!
しまった、と思ったときはもう遅い。あわてて呪文を口にしたが、魔方陣に魔力が吸収されてしまう。もっと力のある悪魔なら人間がつくった魔方陣を壊すこともできるが、あたしみたいな下っ端の悪魔にはムリ。
捕まった。目の前の怪しげな連中に。魔方陣の外に出られないし、魔界にも戻れない。
あたしはヘナヘナとその場にくずおれる。
集団のいちばん前に立つ禿頭の老人が、あたしをながめてニヤリとする。狂気の光を宿したまがまがしい両眼。左頬にはヤギの横顔を描いた青い刺青があった。
「ようこそ、悪魔のお嬢さん。まさか、こんなにかわいらしい方が召喚に応じるとは思わなかったな」
老人はゲヒゲヒと咳きこむようにして笑う。
あたしは老人をにらみつける。こんなときでも、田中課長にたたきこまれたフレーズが自然に口をついてでる。